昭和58年11月2日1版1刷
①大川端
②人力車
③新橋駅
④海の小学校
⑤二長町
⑥本郷弥生町
⑦目白駅
⑧渡良瀬川
⑨新大久保
⑩平民宰相
⑪水戸へ
⑫近衛師団
⑬処女作
⑭清元入門
⑮大工町
⑯心座の頃
⑰学生結婚
⑱「文芸都市」
⑲信仰芸術派
⑳「あらくれ」
㉑能動精神
㉒「文学界」入り
㉓「行動文学」
㉔文士従軍
㉕東京拘置所
㉖酒嫌い
㉗映画「木石」
㉘十二月八日
㉙日本文学報国会
㉚熱海落ち
㉛終戦
㉜「田之助紅」
㉝キアラの会
㉞六十四歳六月まで
・昭和37年12月25日東京市本所生まれ。聖一の命名の由来である。実業之日本社「日本少年」や博文館「少年世界」等の少年雑誌に興味を持ち出し、小説を書きたいと思うようになった。有本芳水の詩をイの一に読んだ。小児喘息から肺炎症状を起し、しばしば重体の宣告を受けた私は小学校時代の受持教師の国の命令で兵役義務に服従させようとする威嚇にあい、生命の不安を本能の実感として持った。東京帝国大学で治金を教えていた父のドイツ留学中に祖母が芝居に連れていかれて芝居に親しんだ。父は帰国後帝大教授となり芝居見物は厳禁となった。中学3年の頃からハッキリ小説家を志そうと考え出した。水戸高校時代に同人雑誌「歩行者」を発行した。私の初上演は牛込会館で上演された戯曲「骨」だった。東大3年の時、妻が妊娠し、校友会文芸部委員長を仰せつかった。大学卒業後、明治大学講師の辞令を受け取った。私の文壇的生立ちは新興芸術派からで、新社会派と新心理派に対立していた。弟宮本顕治の判決で裁判長が「兄聖一の自由主義の悪影響によって左翼思想を植え付けられ‥」と読み上げた時、私は複雑な気持ちだった。第二次世界大戦に突入すると、東条英機は独裁者に変わった。疎開先の熱海で谷崎潤一郎先生と深く交わった。日本文学報国会のために文芸家協会が解消させられたが、戦後、文系家協会の再建に動き出した。菊池寛先生に会長になってもらい、私は書記局長として定款を書いた。菊池寛先生死去後、日本文芸家協会の初代理事長に就任。横綱審議会委員長にもなった。(昭和51年1月13日死去)。