私の履歴書 林房雄(作家) 日本経済新聞社 文化人2

昭和58年10月5日1版1刷 昭和58年11月7日1版2刷

 

①やせおそろえた終戦前夜

②通夜の席で「承詔」論争

③G項追放で糧道絶たれる

④新夕刊に参画、左翼ににらまる

⑤トモダチ集めXマス・パーティー

⑥追放解除…だが虚無感だけ残る

三笠宮ご夫妻とアンデス

⑧「文芸時評」にさまざまな反響

⑨還暦すぎてただ「文章報国」

 

・敗戦から書くことにする。私は玉音放送を聞いて大詔は哲学だと言ったが、その意味は昭和22年に『日本よ美しくあれ』という感想集に入れた。「・・天皇の大御位・御御心の中に結晶したわが民族の理性と英知の発露である。いかなる哲学にもまさる哲学がある。洞見と諦観がある。・・」追放は作家たちにも及んだ。金が尽きかけた時に小林秀雄が助け舟を引っ張ってきた。「新夕刊」という新聞の中に抵抗の拠点を求め、「西郷隆盛」が載ることになった。原稿を書いても買ってくれる新聞も雑誌もなく、新聞の読者欄に投書することでウップンを晴らした。追放が解除されても文学への復帰は困難だった。昭和33年にインカ探検隊に参加。トインビーの「歴史の研究」を三読し、原書12巻を取り寄せて読み始めた。昭和38年、60歳になり、「文芸時評」をやることにした。副産物として「東亜百年戦争」の仮説を結晶させ、小説「文明開化」、「西郷隆盛」再刊が生まれた。漱石の「則天去私」、西郷隆盛の「敬天愛人」、内村鑑三の「日本のため、世界のため、神のため」と同じ境地が開けた。私は「文章報国」という言葉を選ぶ。(昭和50年10月9日死去)