レオン氏郷《中》 安部龍太郎

2017年11月20日発行

 

信長は征夷大将軍への叙任のために上洛する際、忠三郎を同行させなかった。信長は冬姫が懐妊したため側にいるよう配慮したためであった。本能寺の変が起きたのはこのタイミングだった。忠三郎は信長の妻子を呼び寄せて中野城で蒲生家の総力を挙げて籠城戦を挑むつもりだった。光秀は山﨑の戦いで秀吉に敗れ、土民に討ち取られた。清州城では秀吉、柴田勝家丹羽長秀池田恒興の4人が出席して後継者を決める会議が開かれ、秀吉は三法師を擁立し、自らは後見人となり織田家の主導権を握った。忠三郎は信長の遺志を受け継ぎ西洋諸国と渡り合える国にしていける力量は秀吉にしかないと考えて秀吉寄りの立場を取り始めた。秀吉は信長の婿殿の忠三郎の妹とらを側室として兄弟の盃を交わしたいと望み、とらが応じると秀吉は自らが動いて結納を行った。秀吉は家康との小牧・長久手の戦いに敗れたが、織田信雄と和議を成立させ、織田家のために戦うという家康の大義名分を失わせた。秀吉が関白になると、秀の字を用いるのを憚った忠三郎は氏郷と名を改めた。氏郷は秀吉が信長の死を奇貨として天下取りをしようとするだけで見込み違いが次第にはっきりしてくると、自分の力で絶対的なものを掴み取るしかないと考え、右近を訪ねた。キリシタンの洗礼を受け、名づけ親の右近から洗礼名レオンの名を授かった。九州を制圧した秀吉はキリシタン令に乗り出す。右近が自分は殉教の範を示すので、氏郷には信仰を隠して70万信者のために現世の力を持ち続けてほしいと願った。秀吉は氏郷に羽柴姓を与え、聚楽第の中に屋敷を与えた。秀吉は氏郷をマカオに派遣し、ローマ法王が禁じたスペインとの交易が復活するよう交渉を命じた。ところが秀吉はその後右近と氏郷を外して石田三成小西行長に交渉を担当させた。秀吉は豊臣家に権力集中させかかっていた。家康の国替えに伴い、氏郷も松阪12万石から会津42万石に転封された。