絵物語 長谷川等伯 (画)西のぼる (文)安部龍太郎

2013年6月10日第1刷

 

表紙「激動の戦国の世に、日本の水墨画の最高峰を生んだ謎多き絵師の生涯が、華麗な絵巻物で浮かびあがる!直木賞受賞作『等伯』の日経新聞連載時の名コンビが復活!巻末に安部龍太郎等伯』10選の写真と、作品解説を収録。」

表紙裏「国宝『松林図屏風』は、なぜ描かれたのか―天下一の絵師をめざし、三十一歳で能登の七尾から京へ。信長・秀吉の時代に頂点をきわめた狩野永徳のけんらん豪華な画風に、ひとりたたかいを挑んだ男がいた。身近な者の非業の死、心の師・千利休の自刃…苦しみと絶望をのりこえ、悲しみは祈りにかえ、初志をつらぬき、ついに画境の高みへのぼりつめた男を、さらなる試練が待ち受けていた。そして…。」

 

信長の5つ下、家康より3つ年上の等伯(信春)は、11歳で絵物師の長谷川家に養子に出された。武士として生きていけないなら天下一の絵師になって父や兄を見返してやるとの気持ちを込めて、20歳過ぎには養父宗清と肩を並べるほどの絵師となった。信春がライバル心を抱いた相手は狩野永徳だった。養父母が亡くなると故郷から追放される形で七尾から出て上洛する。途中、信長の比叡山延暦寺焼きに巻き込まれ、本願寺に住み込み永徳の乳松栄と知り合い、狩野派の障壁画の技法を伝授され、弟子入りを許される。次第に絵師として頭角を現し、同じ画題の絵を描いてどちらが優れているか、永徳と一対一の勝負に挑む。狩野派の八大弟子と息子の久蔵に札を入れさせると、結果は四対四で、一票は白紙。信春の勝ちに等しい結果で、聚楽第の仕事に久蔵と共に参加することが決まった。大徳寺三門の壁画を仕上げた信春は天下にその名をとどろかせ宗圓から等伯の号を貰い、永徳と肩を並べる絵師となった。良き理解者であった千利休が自刃し、等伯の片腕だった久蔵が26歳で亡くなり、悲しみを背負って名作『松林図屏風』(東京国立博物館)を描いた。これを見た秀吉は戦さに明け暮れた自分の人生など小さかったと反省し、自分の負けを認めて、久蔵の死因を調べ直すことを約束した。16年後家康に招かれた等伯は江戸に着いた直後に72歳で亡くなった。