昭和58年10月5日1版1刷 昭和58年11月7日1版2刷
①一生医師として働きつづけた父
②父に押し切られ独協中学にはいる
③問題がむずかしく一高を二度失敗
④一日十二時間の勉強で三度目に合格
⑤一高時代、十日の練習で正三塁手に
⑥東大医学部、教科書より文学書を
⑦「木の芽会」退き「ホトトギス」へ
⑧勤務多忙、いつしか医局の最古参
⑨「ホトトギス」去り「馬酔木」による
⑩月夜に梅の枝影をふむ
・明治25年10月9日生まれ。小学校を卒業し独協中学に進み、祖父も父も医師で、医科に進むため1日12時間勉強を励行した。3度目の一高の入試で主席でパスし、東大に進んだ。血清科学教室に入り、医学部出身者だけの俳句会に出るよう緒方益雄君に誘われて参加した。「ホトトギス」に傾倒し、産婦人科教室の一員となり、同時に俳句もよく勉強した。医局で古参になった。花鳥諷詠を標語に掲げるホトトギスと馬酔木の会員となった。教授となり非常に忙しくなり、ホトトギスの編集参画は辞退したが俳句は続けた。句風の違いからホトトギスを去り、馬酔木に拠ることにした。週に一度の宮内省病院への出勤が加わりますます多忙になった。作句力に衰えを感じている。前は一日50句位詠めたが、今はできぬ。北海道に1週間旅行し3か月がかりで百句にまとめたいと目下努力中である。(昭和56年7月17日死去)