昭和58年10月5日1版1刷 昭和58年11月7日1版2刷
①年寄りっ子、学校へ上がっても母の乳
②長兄が校長、成績がいいがおとなしい子
③郡の高等小学校で日本主義教育
⑤一高生活、俳句より短歌に魅力
⑥法科に転向、逓信省へ入る
⑦療養生活、万朝報にさかんに投稿
⑧再び逓信省へ、次官で退官
⑨洋行、船中で聞く大震災の悲報
⑪思いもよらぬ電波監理委員長
⑫わが人生あるがまま・波乱なく
・高等小学校を3年で中退して豊橋の中学に入った。愛知県立第四中学(現在の時習館高校)で数え年14歳の時だった。一高に進み、卒業近くになり文科から法科に転じた。大学を卒業し、逓信管理局書記という辞令をもって官界ヘ第一歩を踏み出す。結核でしばらく療養生活を送り、為替貯金局書記という判任官の振出しから出直した。22,3年間役人生活が続き、電気局長、経理局長、逓信次官を務め、昭和12年に依頼免本官となった。次官就任間もなく2/26事件が起きた。逓信省の高等管食道のメーンテーブルにゴルフ組対俳句組という色分けが出来たのは昭和6,7年頃だった。お勤めも大事、俳句もシンケンというのが私の気持ちだった。次官を辞めた後は旅行の機会が多かった。盧溝橋事件の際は四国旅行中だった。真珠湾攻撃後は戦争俳句を作った-作らされた。戦後は公職資格訴願審査員の辞令を貰い、戦後両3年は句集や随筆集を出した。電波監理委員会の仕事に時間を取られながら、俳句の勉強を続け、若葉叢書第1巻として私の第八句集「晩涼」が出た。(昭和54年2月22日死去)