私の履歴書 五島慶太(東京急行会長) 日本経済新聞社

昭和55年6月5日1版1刷 昭和59年2月23日1版15刷

 

①生い立ち 百姓の二男坊

②偉大な父母の感化

③先生をしながら「学」の道へ進む

④官吏生活9年

⑤目蒲電鉄創立のころ

⑥富井、加藤の二恩人

⑦市ヶ谷の未決ぐらし

⑧「三越」の乗っ取り失敗

⑨地下鉄争奪戦

⑩東条から大臣を押し付けられる

 

・水呑百姓出身。松本中学卒業後、村の代用教員になる。東京高等師範学校の英文科に入り、卒業後は四日市立商業学校に英語教師として赴任。そこをやめて上京し、帝大政治学科の専科に入学。法科大学の本科に転じた。東大法科卒業後、農商務省に入省。1年後に鉄道院に入り、9年間役人をやった。五島万千代と結婚し小林から五島に改姓。総務課長を1年半ばかりやって東横電鉄の前身の武蔵電気鉄道の常務に就任するため鉄道院を辞めた。同じ頃、渋沢栄一が田園調布と洗足に買った土地に鉄道を敷くため荏原電気鉄道が創立され、先にこちらをやることに決心し、目黒蒲田電鉄と改めて建設に着手し、これが東横電鉄を合併して、今の東京急行の母体となった。目黒蒲田間全線開通した後、武蔵電鉄の株式過半数を買収し、東京横浜電鉄と名称を改め、渋谷桜木町間を開通した。この間、自殺を考えるほどの苦しみを経験。時には社員の給与にも困難した。この時苦心惨憺してもちこたえて来たればこそ今日の盛大をみることができた。大学を卒業できたのは富井政章、加藤高明のお陰である。後に無罪となるが6か月間の獄中生活を送った。信仰で人間の意志というものを絶えず鍛錬しておく必要がある。知と行だけではダメである。東横女子商業学校を設立。これが後に学校法人五島育英会として幼稚園から大学までの総合教育機関に発展した。渋谷に東横百貨店をつくった。多い時には120数社を傘下に擁した。内閣顧問に任ぜられ、東条より運輸通信大臣をやってくれと頼まれて大臣になった。戦後5年程追放になったが、再び東京急行へ復帰して采配を振るった。           (昭和34年8月14日死去)