2017年11月10日初版発行
帯封「ただの小石が、黄金に変わることがあるだろうか 貧家に生まれるが、運命の変転により、天下統一を目指す劉秀の将となった呉漢。時代が生んだ最高の知将・呉漢の生涯を描く! 『草原の風』から六年。宮城谷文学の新たな精華」「若いころの劉秀は農業の達人であったらしい。農業に従事する時間が長かった呉漢には、その人格形成の過程がわかるような気がする。一言でいえば、農業は合理ではできず、不合理をうけいれて昇華する心力をもたねばならない。劉秀は兄の劉縯を更始帝に註されたが、それを怨誹の心でとらえず、大切に育ててきた作物が一夜の洪水でながされたときとおなじ哀しさとしてとらえた。水を仇敵とみなして、仇討ちをすることはできない。(本文より)」
呉漢は天を瞻ず地を瞻て耨で土を耕し続けていた。ある日、潘臨という男が呉漢に「たまには天を仰ぐべきです。といっても、あなたはそうしないでしょうから、それならそれで、地をうがつほどみつめることです。ぼんやりながめていてはなりません。人が念う力とは、小石を黄金に変えるのです」と語った。雇主の彭氏(彭寵)の長子から掛けられた「他人に利を与える」という言葉も呉漢は腑に落ちた。銭を二倍くれるという紅陽に向かう道中で知り合った祗登(きとう)は呉漢に「いつの日か、自分が王朝にかかわる、そういう身分になる、と想ってみないか。すると皇太子の年齢は他人事ではなくなる。つねにそう想って生きている者には、突然、その日がやってくるものだ。そのときに、うろたえずにすむ。これから、そういう日にそなえた生きかたをしてみよ。天の目は節穴ではない」と語ると、呉漢は烈しく打たれた。農場の若者の監督役に引き上げられた呉漢は、若者の意見をよく聞き、横流しをやめさせて成果をあげた。祗登が紅陽の賃金を横領したとの噂を聞いた呉漢だったが、話し半分で聞いていた。祗登は濡れ衣を着せられていたことが分かり安堵した。呉漢は警察署長でありながら行政、司法、外交と無関係ではない亭長に就任した。祗登を迎えるために大きな家を準備し、祗登から様々なことを学んだ。王莽の急な改革に次ぐ改革から「理想がすぎると悪になる」ことを学んだ。祗登だけでなく、魏祥、角斗、郵解らも、呉漢の従者・臣下として、呉漢の人の温かさを感じて仕えた。祗登が仇讎の況糸を殺害した。連座を恐れて呉漢は洛陽に逃げた。洛陽から鄴を通って河北へ向かう呉漢らは、途中で昔の雇主の彭寵に再会する。王莽が死に、更始帝の官軍が長安を制した。涿県郊外の樊蔵宅で馬を求めた呉漢だったが、初めて会った樊蔵とうまが合い、祗登の言った「蓋(がい)を傾ける、故の如し」とはこのことだと思う。樊蔵から息子の樊回を預かった呉漢は馬を売って家を求めたところ、旧友の韓鴻と再会した。韓鴻は更始帝の王朝で渉外担当の謁者となっていた。韓鴻はかつての雇主の彭伯通に漁陽太守を代行させるといってくれたので、呉漢は彭寵に少しは恩返しが出来たと思い、肩の荷がおりた。韓鴻は呉漢に安楽に入るよう言い、その県の令に任命した。。更始帝に河北鎮撫を命じられた劉秀将軍が薊県に到着すると、彭寵の従者として呉漢も謁見することになった。ところが彭寵が動かないため、呉漢が彭寵を訪ねると、漢の成帝の皇子(劉子輿)が邯鄲で皇帝として立つという事件が起きたことを告げられた。薊から劉秀将軍は逃れた。劉秀を助けるのは今だと思った呉漢だったが、周りは邯鄲の天子に従うべきとの意見が圧倒的に多かった。ある時、呉漢は、儒者の況糸の子息の況巴(きょうは)と出会った。況巴は呉漢の仇讎だと誤解して呉漢に襲い掛かった。呉漢は誤解であることを説き、真の仇讎の名を教えることは況巴の才を萎ませるだけだと考えて教えなかった。況巴と呉漢は邯鄲の天子が偽物であるという檄文を作成し、祗登がこれを助けた。彭寵は檄文を読むと目が覚め、同時に蓋延(こうえん)・寇恂(こうじゅん)・耿弇(こうえん)といった突騎という騎兵軍団を率いる者たちと一緒に劉秀援助を決定した。呉漢は劉秀を初めて見た時、農業の達人だった劉秀が不合理をうけいれて昇華する心力をもつ、よけいな重みがない人格を感じ、劉秀から他の4人とともに候に任じられた。やがて3人いる大将軍の1人に任じられた呉漢は、20騎を従えて苗曾の城に向かった。