呉漢 下 宮城谷昌光

2017年11月10日初版発行

 

帯封「雲に梯子をかけることはできるだろうか 光武帝劉秀が行った、中国全土統一、後漢建設事業。天下の平定と光武帝のために、すべてを捧げた武将・呉漢の生涯を描く!」「蓋延は群の上級官吏としては、瑕瑾がなかったのに…。大軍をあずかる将となって、その才が伸びず、器が拡がらないのは、もともとの志のありようと無関係ではあるまい。呉漢は、昔、祗登に教えられたことが、どれほど貴重であったかを、蓋延をみて、痛感した。貧困と不遇は忌むべきものであるが、人によっては、その耐えがたい苦しみが莫大な宝に変わる。(本文より)」

 

河北を平定した劉秀は、皇帝(光武帝)に即位。後漢王朝が誕生する。大司馬となった呉漢は元帥として洛陽包囲の指揮を行った。次に東方平定を続ける蓋延を、呉漢と耿弇は擁護する。呉漢は、湖陵の城に籠る劉永を落と切れない蓋延を助けた。蓋延は劉秀に仕えるだけで自立性が弱かった。呉漢は自らが負傷しても味方を鼓舞し、敵にわざと包囲させて薄くなった包囲陣を突破したりしたほか、敵の備蓄量を調べて落ちるのを待つなどして、最終的に劉永の首を取った。劉永は城から逃げ出し謀叛に遭って首を斬られた。今度は天子が自ら北伐するのに呉漢は随従した。涿群を平定すると、次に呉漢は東群を平定するように命じられた。呉漢は、鬲県の叛乱については、戦うことなく、かつての為政者を逮捕して謝罪するだけで治めた。東方の賊を討伐するため呉漢は劉秀とともに董憲と龐萌を襲い、2人の死により東方を平定した。南方は馬成将軍が舒県を攻略し、残すは西方の益州の公孫述だった。呉漢は自らを劉秀と比べて平凡と言ったが、これを祗登は王朝にとって無害であることを平凡と言い換えたと理解した。長安を守っていた呉漢だったが、西城攻めが命じられた。佐けるのは岑彭、蓋延、耿弇だった。敵の兵糧を算えていた呉漢だったが自分の兵糧を算えなかったため、公孫述の援軍が到着した時点で引き揚げた。北方遠征を命じられた呉漢は買覧の胡騎に敗退した。遠征が続いた後漢に劉秀はしばらく休むよう言った。再び買覧との戦いに起用された呉漢は買覧との戦いに今度は勝利したが、その背後には匈奴がいた。更に呉漢は南郡に向かって出発した。益州北部で来歙が刺客により暗殺され、劉秀は深い哀しみに陥る。岑彭は公孫述を追い詰めかけたが、公孫述の死にもの狂いの抵抗に遭い、岑彭は公孫述の刺客に暗殺された。公孫述は呉漢にも刺客を放った。呉漢と従者達は用心に用心を重ねた。祗登の友人だった狄師は公孫述のために刺客となり、呉漢を訪れた。祗登は狄師と旧知のため油断した。凶刃が呉漢を襲ったが、祗登が盾となり呉漢を助けた。呉漢は祗登の死に我を忘れ苦戦を強いられたが、窮地を脱して呉漢は光武帝の明示する戦略通りに軍を進めて益州を攻略し、公孫述を倒し天下は戦乱の世は終わった。