2010年6月25日初版発行 2010年9月5日3刷発行
裏表紙「緒戦、奇襲攻撃で勝利するが、国力の差から劣勢となり敗戦に至る…。日米開戦直前の夏、総力戦研究所の若手エリートたちがシミュレーションを重ねて出した戦争の経過は、実際とほぼ同じだった! 知られざる実話をもとに日本が〈無謀な戦争〉に突入したプロセスを描き、意思決定のあるべき姿を示す。」
昭和16年4月1日、内閣総理大臣直轄の「総力戦研究所」入所式に若手官僚・軍人・民間人35名が入所。翌2日の飯村所長の訓示兼ガイダンスから、独軍司令官ルーデンドルフの著作『総力戦』の「軍隊だけで遂行する戦争の時代は終わり、近代戦は武力戦と同時に、国民総力を結集した経済戦、外交戦であり、敵を宣撫し攪乱する思想戦なのだ」との一節を脳裏に描く。
昭和16年8月27日、第三次近衛内閣の閣僚たちを前にして、研究生による「模擬内閣」の結論、「12月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、結局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから日米開戦はなんとしても避けねばならない」を研究発表の形で明らかにした。
しかし、近衛内閣はこれを考慮に入れることはなかった。総力戦研究所の模擬内閣が今日評価されるとしたら、彼らが事態を曇りない目で見抜き予測した点にある。その予測を可能にしたのはタテ割り行政の閉鎖性をとりはらって集められた各種のデータであり、彼らの真摯な討議であった。
ちなみに当時の状況としては、東條英機陸軍大臣は開戦論者だったが、昭和16年10月、開戦に積極的ではない天皇陛下の意向を踏まえ、陛下を絶対視する東條が首相となり、統帥部の大本営陸軍部(参謀本部総長)、海軍部(軍令部総長)と政府側の陸・海軍省を合わせた軍部を抑え込んで、開戦を回避する布陣を敷いた。東條は開戦回避のために尽力するが、強硬派の陸軍に押され、11月にアメリカから通告されたハル・ノート(中国・仏領インドシナからの完全撤退等)もあり、アメリカとの戦争に突入する。
・アメリカの対日石油禁輸措置が発動された後、開戦根拠の一つであった南方進出・蘭印占領(インドネシアに石油を獲りにいく場合)の石油需要バランス試算が行われるも、アバウトな総量計算だけしか行わず、ガソリン・重油の中身は詰めておらず、数字の根拠も企画院はロクに知らされていなかった。しかも南方進出にとり最も肝心な点は護送作戦であるはずなのに、護送作戦を統轄すべき中央機構は作られず、各艦隊が各々独自に商船護送作戦を実施したに過ぎなかった。蘭印で奪った産油量は予想以上だったが、石油を運ぶタンカーは次々とアメリカ潜水艦の餌食となった。その経過は総力戦研究所の想定通りであった。更に海軍では長期戦になった場合の研究はしていたが、「総力戦」の研究はしていなかった。
組織を背負うと冷静な判断ができなくなる
総力戦研究所の発表に対して東條陸相の表情は青ざめこめかみが心もち震えながら「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君たちの考えているようなものではないのであります。日露戦争でわが大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、止むにやまれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡なことが勝利につながっていく。したがって、君たちの考えていることは、机上の空論とはいわないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものを考慮したものではないのであります」とコメントしたという(研修生の記憶をもとに復元した)。
・東京裁判で東條は統帥権という明治憲法の制度欠陥を指摘した。すなわち当時の憲法は軍隊を指揮監督する最大の権限(=統帥権)は天皇にあり、陸海大臣(予算・兵力量策定・部隊編成などの軍政)と陸海軍の長(作戦行動等の軍令)がその統帥下に含まれるとしていたため、内閣(陸海大臣)には陸海軍の指揮権がない、他方で天皇は君臨すれども統治せずの立場にあったため、陸海軍の指揮権を行使することはないため、軍部の独走を許してしまう欠陥的構造があった。しかしこれでは天皇の訴追が免れ難くなるため、この論点を追求することなく、東條は、私の内閣が戦争を決意したと述べて自ら責任を取った。
・最後に研究員のその後の人生の軌跡について触れられている。
彼を知り己を知れば百戦殆からず、の孫氏の言葉が頭に浮かぶ。敵を過小評価し、自己を過大評価する、しかもそもそもシステム上に欠陥があり、権力をコントロールすることができなかったという悪夢のような話だが、それでも僅かに80年前の話なのだから、恐ろしいばかりである。この時の失敗を繰り返さないよう、歴史から何を学ぶべきなのか、果たして本当に現代の人々は学ぶべきものを学んでいると言えるのだろうか。疑問である。