置いてきた毒ガス 相馬一成

1997年11月25日初版発行

 

表紙裏「日中戦争の敗戦後、旧日本軍は敗走の中で中国各地に約200万発もの毒ガス砲弾を遺棄していた。戦後50年以上たつ今も、その被害に苦しめられている人々がいる。著者の地道な取材はその埋もれた事実を明らかにし、カメラは戦争の残虐さを映し出す。」

 

目次

はじめに-中国に遺棄した毒ガスの処理を

ハルビン 毒ガスを探して七三一部隊跡へ

チチハル 加害の側の証言―無差別に殺傷する兵器

北坦村、西営郷、武郷 被害の側の証言―残虐の限りをつくした日本軍

孫呉 要塞都市に今もねむる毒ガス

敦化 「毒弾溝」と呼ばれる死の谷

ジャムス 毒ガスを浴びた浚渫船作業員

周家鎮 50年後の爆発で村人が死亡

牡丹江 軍都に埋められた毒ガス弾

汾陽 最後の毒ガス戦

日本の毒ガスの遺跡を歩く

毒ガスの歴史

日本の読者のみなさんへ-歩平(黒龍江省社会科学院副院長)

 

・日本も批准し1997年に発効している「化学兵器禁止条約」では「他国の領域内に遺棄した全ての科学兵器を廃棄する」と定められており、日本が中国に遺棄した化学兵器を廃棄処理することは国際的な義務になっている。例えば日本は180万発埋蔵したと記録されている吉林省敦化市ハルバ嶺での調査では、70万発の毒ガス弾が埋蔵されていると推定される。10年以内の廃棄方針は決まっているが、そのための日本側の態勢はまだできていない。

・目次にある通り、日本軍は中国の各地で毒ガスを使用していた。その毒ガスを研究製造していた日本の毒ガスの遺跡を巡り歩いた著者。現在の新宿区百人町にあった陸軍科学研究所・第六技術研究所では毒ガス兵器の研究が行われており、現在は最近とウイルスの研究から行われている。陸軍習志野学校は毒ガス専門の将兵を養成する秘密の学校だった。大久野島はいわゆる毒ガス島、広島の出島公園には毒ガスの原料ジフェニールアルシン酸がドラム缶で1200缶(120トン)埋められている。北九州市小倉区に東京第二陸軍造兵廠曽根製造所は大久野島で製造された毒ガスを砲弾に充填する工場だった。旧海軍は神奈川県寒川町に毒ガス工場を建てた。海中投棄された場所は青森県陸奥湾、千葉県沖、神奈川県の相模湾静岡県浜名湖広島県大久野島周辺、高知県沖、山口・福岡県沖の周防灘、大分県の別府湾。1996年には北海道屈斜路湖でびらん性毒ガス弾が発見された。条約は1977年以前に国内に埋められたか、85年以前に海洋投棄された物については義務付けされておらず、各国の判断に委ねられている。

 

まったく知らないことばかりである。不勉強を恥じるのみである。