ポーツマスの旗 外相・小村寿太郎 吉村昭

昭和58年5月25日発行 平成25年2月25日27刷改版 平成31年2月15日31刷

 

表紙裏「日本の命運を賭けた日露戦争。旅順攻略、日本海海戦の勝利に沸く国民の期待を肩に、外相・小村寿太郎は全権として、ポーツマス講和会議に臨んだ。ロシア側との緊迫した駆け引きの末の劇的な講和成立。しかし、樺太北部と賠償金の放棄は国民の憤激を呼び、大暴動へと発展する-。近代日本の分水嶺日露戦争に光をあて交渉妥結に生命を燃焼させた小村寿太郎の姿を浮き彫りにする力作。」

 

日露戦争の経緯を簡略に紹介いただいた後、日本海海戦等の戦果は素晴らしいものの国庫はスッカラカンでもはや戦線を維持することが難しいという事情の説明を経て、小村寿太郎さんが講和交渉の全権委任に選ばれ、ロシア代表のウイッテさんと極めて難易度の高い交渉をやり遂げ、ポーツマス条約の締結に至るも、日本では講和条約に対して「なんで賠償金取れねーんだよナメられやがって媚びやがって小村の糞が政府のボケが」みたいな状態で日比谷焼き討ち事件等が発生し小村寿太郎さんの家族もデビルマン的群衆の襲撃を受けるという救われない展開に至り、小村寿太郎さんはその後も外交官として活躍するも家庭的には報われず寂しい最期を迎えるという流れであります。

 

当時の日本の知識階層も賢いので、民衆の反応も含めて講和交渉の結果が「こうなるだろうな」というのは皆分かっていたのであります。

 

日露戦争の講和交渉の全権を任された外相小村寿太郎日露戦争に勝っても、既に国家予算の8倍にもあたる巨額の戦費を投じていた日本の国力では戦線維持が難しく有利な講和条約を結ぶべくもなかった。誰もがやりたがらない難交渉。伊藤博文が固辞したほか、誰も引受け手がないためにお鉢が回ってきたともいえる。小村が日本を発つときには仰々しいセレモニーが行われ、民衆から熱狂的に見送られるが、随行する山座円次郎は小村に「あの万歳が、帰国の時に馬鹿野郎の罵声ぐらいですめばいい方でしょう。おそらく短銃で射たれるか、爆裂弾を投げつけられるにちがいありません」と言うと、小村は「かれらの中には、戦場にいる夫や兄弟、子供が今に帰してもらえるのだと喜んでいる者もいるはずだ」とつぶやく場面が印象的。ルーズベルト講和条約に向けて乗り出して和平斡旋を促してくれるようにするため金子堅太郎がアメリカに送られる。そして金子はルーズベルトから真意を聞き出すことに成功する(それにしても外交を成功させるには、かくも人間そのものの力量が問われるのだということが事実を淡々と語る中で吉村は読者に訴えかけている)。日露戦争前にはロシアに日本の暗号表が手にわたり日本の暗号が解読されていた事実等が明らかにされている。小村の到着後、金子がルーズベルトとの間に入って講和条約の日本案を伝え、ルーズベルトから詳細に検討した上での修正案を受け取るなど、外交交渉というものは事前準備をここまで入念にした上で臨むものなのかと感心した。

早速ロシアの全権大使ウイッテと小村との交渉が始まり、予備会議で秘密厳守を互いに約束していながら、日本より交付された12条全文が翌日に新聞記事に掲載されるのに驚く日本サイド。もっとも小村は誠実さを基本方針としそれを唯一の武器とした。もっとも概要は予想されていたものであり報道されたことで日本に不利な世論が形成される恐れは少なかった。実際各国の報道も概ねその方向で論評していた。またロシア政府内の派閥争いを伝える機密電報も小村に届く(情報戦というのはまさしくこういうことを言うのだと改めてとても勉強になった)。ある条項をめぐる小村とウイッテとのやり取りもなかなか見事である。

小村が相手のいう事を否定するための材料をたっぷりと仕込み、かつてロシアと清国間に交わされた秘密条約の存在を指摘すると、ウイッテがそれを認めた上で「私が個人として侵略主義に反対し、常に平和主義をとなえていたことを熟知しているはずである・・私は、あくまでも平和を愛する人間である。私の真情を理解して欲しい」と述べ、小村も「詳細で、しかも率直な説明に敬意と謝意を表したい」と答えて和やかな空気がひろがるという場面が紹介されている(手に汗握るとはこのことだろうと思いますね、本当に)。残る難問は償金支払と樺太割譲問題のみ。だが互いに譲ることができず妥結点が見つけられない。このままでは交渉は破談は必至という状況下で小村とウイッテは2人だけの秘密会談をもうけ、互いの祖国の実情を率直に話し合う。そして樺太二分論と償金12億のみとする妥協案を練り上げ、互に本国に打電した。ルーズベルトはそれを聞きこれなら妥結するだろうと安堵する。ところがロシアは二分論も償金もいずれも拒否せよ、交渉を打ち切れとウイッテに命じ、日本国内でも打ち切り要求の世論が高まってしまい、万事休す、双方が最後の会議に臨む。アメリカから撤退もやむなしとなったタイミングで、山県が全首脳に対して戦争継続するならば大軍を既に用意しているロシアに我が国が大ダメージを受けることを説明し、償金支払も樺太割譲も譲るしかないと説き伏せる。他方ロシアの皇帝はギリギリのところで樺太南部割譲を譲歩することを決断し、ついにポーツマス条約締結に至った。成立時、小村は「両閣下が平和を心から望まれたことによって、ここに講和条約が成り、人道、文明に寄与されたことはまことに賞讃すべきことであります。今後、日露両国の友好に尽力することは私の義務であり、喜びでもあります」と語る。ところが小村は心身ともに疲弊し肺尖カタル(当初は腸チフスと診断されて治療を誤る)で倒れ、日本では戦況を正確に知らされていない国民がロシアへの譲歩に次ぐ譲歩に憤りを爆発させて暴動が起こる。落ち着いた論調の新聞は徳富蘇峰主宰の国民新聞だけ。日比谷公園や官邸での暴動だけでなく東京市の7割以上の派出所は焼失し各キリスト教教会も同様に暴動の被害に遭う。小村宅も襲撃され、全国39の新聞、雑誌の発行禁止処分を受ける。アメリカのマスコミは教会へ火を放つ日本国民を野蛮人扱いする報道をする。帰国後、南満州支線をアメリカの鉄道王に売り渡す覚書を交わししまった日本国首脳に怒りをぶちまけ、衰弱した体を押して帰国したのはこのことを防ぐためだと言い、すぐに桂首相に破棄する必要を説く。一旦決めた閣議決定も覆し、事なきを得た。講和条約を履行するため、小村は清国へ、伊藤博文は韓国へ赴き、小村は日清協約を締結する。東京騒擾事件の責任を取って桂内閣総辞職に伴い外相を辞任した小村は駐英大使としてロンドンに赴任するものの直に西園寺内閣の下で外相に返り咲きアメリカとの外交政策を任され、反日感情に傾いたアメリカと通商協商を成立させる。その後韓国併合、国内では大逆事件が起きた後、第二次西園寺内閣発足に伴い慰留されるものの病身を理由に外相を辞任。その後ほどなくして亡くなる。享年56歳。

 

大局を観る眼、交渉をものにする胆力、語学力を含め、本書を読むかぎり、尊敬すべき人ですね。清や韓国への強硬な態度で清国民や韓国民から相当な反発もあっただろうと予想されるので、その点については余り触れられていないために全面的な評価をすることが困難ですが、それにしても昔の人には大人というか人物が大勢いたのだなと改めて思いました。