国萌ゆる 小説原敬 平谷美樹

2021年10月15日初版第1刷発行

 

帯封「理想の国家を目指した平民宰相・原敬。『高き理想と、豊かな人間性平谷美樹は、総理大臣のあるべき姿を活写した。日本の未来はこの小説の中にある』細谷正充氏(文芸評論家)激賞! 没後100年記念 傑作大河巨編!」「日本初の本格的政党内閣を率いた政治家、激動の生涯。『今の世に原敬がいてくれたら。幾度となく読んだニュースにも出てきた岩手の先人『原敬』でしたが、彼の功績や思想だけでなく、ニュース原稿では決して伝えられない人間臭さまでも感じることができました』浅見智氏(IBC岩手放送アナウンサー)絶賛!」

表紙裏「憲政史上初の『平民宰相』原敬盛岡藩士の子として生まれ、戊辰戦争での藩家老・楢山佐渡の死に際し新しい国造りを志す。維新後、士族をはなれ平民となり、新聞記者、外交官、官僚として頭角を現す。政界へと転じると藩閥政治から政党政治への刷新を掲げる。第19代総理大臣となり日本の政党政治、民主主義の基礎を築くが、1921年11月4日、東京駅で暗殺される。原の出身地・岩手在住の著者が、理想を追い続けた稀代の政治家、そして家庭での知られざる等身大の姿も描ききった、渾身の大河小説!」

 

序章 遺書(原敬が書いた遺書の一部という建付けのようだ。本作が遺書という意味合いだ)

第1章 柳の若葉

新政府に抗した盛岡藩は賊軍とされ、家老楢山佐渡は故郷で斬首の罰を受ける。健次郎は楢山が最後に発した言葉が健次郎宛の「柳は萌えておりますな」であることを介添えの一人から聞く。大恩ある人物の命を刎首という形で奪う役目を引き受けた藩随一の剣客江釣子源吉は、その直後、原健次郎とともに慟哭する。

 楢山が目指した国とは為政者と民百姓が膝をつき合わせて話し合い、よりよい政への道を探る国だった。新政府は侍による侍のための国を目指していて民百姓はほったらかし。これでは百年、二百年の計を誤る。その志を継いだ原は洋学を学ぶため上京を決意する。母親に相談して家を売って作った金をだまし取られた健次郎だが、船頭の協力を得て無事上京を果たす。神父から語学を学ぶため洗礼を受け、神父の供をしてフランス語を学ぶ。原家はもともとは士族だったが、平民籍への編入が許されたこともあり健次郎は分家して平民となる。

第2章 法学生の「一揆

 司法省の法学校に2番で合格した健次郎だが、3年目に入り、賄問題のために騒動を起こした4人が寮を出されたため、薩摩出身の校長に直談判した後、司法卿に会うが、法学校で学ぶことはすっぱり諦めて別の道を模索せよ、そういう覚悟で来たのだろう?と尋ねられてその覚悟がないことを悟られ、考えが甘いと窘められる。結局、健次郎は新聞記者に転身。

第3章 賊軍の正義

 中江兆民の塾に入りルソーの著作を翻訳するなどしていたが、郵便報知新聞に入社。全国の民情視察に随行して北日本を周り仙台で陸奥宗光に出会う。急進的な大隈が罷免された直後、郵便報知新聞の編集部に、ここの元記者だった犬養毅らが訪れた。社長交代劇の記事を書いた健次郎は、編集の矢野から、原稿を破られたものの、世の中に絶対の正義など存在せず、主義主張の数だけ正義があり、どの正義の下に立つか選択する必要がある、を教わる。結局、健次郎は報知社を去り、井上馨が後押しをする立憲帝政党の機関紙となる大東日報の主筆の声がかかり、雄藩憎しを消し去って一旦は入社する。が財政難に陥り大東日報が沈没する前に外務省から打診を受ける。

第4章 天津、パリの日々

 外務省御用掛の職を受けた原は天津領事に任命され井上馨を訪ねると、郵便報知新聞への斡旋をしてくれた中井弘の娘貞子との結婚を承諾させられて式を済ませると直ぐに上海経由で天津に向かう。フランスの清国政策を正確に知るため李鴻章らと何度も会談する中、清仏戦争や甲信事件が起こるなどした後、単身でのパリへの異動命令が届く。西日本を回って東京に戻り、フランス赴任の晩餐会には、井上馨山縣有朋らを招き、フランスへ旅立つ。

第5章 陸奥宗光との出会い

 帰国後、井上馨農相大臣の下で参事官として働く。井上が辞任し、後任に土佐藩陪審の息子だった岩村通俊が農商務省に就任すると完全に干されてしまうが、後任に陸奥宗光が入ると原は秘書官として働き参事官も兼務する。ロシアの皇太子ニコライが暴漢の襲撃に遭う大津事件を機に原は京都に出向いて情報収集に努めて陸奥に報告する。結局陸奥が言うように進んで大津事件は幕引きとなる。陸奥は53歳で肺結核で死ぬ。葬儀の折古川財閥の古川市兵衛が近寄って来て陸奥より原の力になるようにと言われていたことを告げられる。陸奥が自らの背後にあった古川財閥を譲ってくれ自分を後継者に選んでくれたことを知り政界の頂まで登って行けという陸奥の声なき遺言を聞いた。

第6章 遥かなり政党政治

 板垣率いる憲政党、大隈の憲政新党が争う中、伊藤博文は新党旗揚げ(立憲政友会)に動き、原は伊藤に声を掛けられる。憲政党の多くは新党に合流すると西園寺から入閣見送りを告げられる。第四次伊藤内閣が成立し、大阪毎日新聞の社長を務めていた原は政友会の総務兼幹事長に就任。収賄事件で騒がれた星亨が逓信大臣を辞任すると原に白羽の矢が向けられ盛岡藩(賊軍)発の大臣となる。伊藤内閣総辞職の後に第一次桂太郎内閣が成立する。首相は元勲が就いていた流れを変えた桂内閣には原は良い評価をする。伊藤内閣総辞職で職を失った原は大阪の北浜銀行頭取に就任。総選挙で清岡と戦った原は大差で清岡を破る。政友会は過半数を獲得。ところが陛下から枢密院議長就任に伊藤が求められ、新総裁を西園寺とする体制に切り替わり政友会から大勢の者が退会。

第7章 政治家として、父として

 奏答文事件で衆議院が解散した状況で日露戦争開戦を決定する御前会議が開かれる。大熊の傀儡内閣の桂邸に原が出向き政府に政友会が協力することを約束。有利な形でロシアとの休戦条約が締結。賠償金を取らぬことに不満を持った民衆が講和条約反対の決起集会を開催しようとして警察の囲みを破って暴徒化し戒厳令が敷かれる。桂は日露戦争とその後の混乱の責任を取って辞任し第一次西園寺内閣が成立。原は内務大臣を拝命し大阪新報の社長と古河工業の副社長を辞任する。幕閥政治をよしとし山縣らにおもねる者を一掃したい原だったが山縣らの攻撃に耐えきれず西園寺内閣総辞職し第二次桂内閣が成立。原は欧米十数か国を巡る旅行に出た。伊藤博文ハルビン駅で暗殺される。韓国併合後、原は予算委員長に就任。大逆事件を契機に南朝北朝問題が再燃するが、光圀の大日本史を根拠に、足利尊氏が逆賊、楠木正成が忠臣という解釈が正しいという認識が広まる。清国滅亡、袁世凱中華民国初代大総統に就任する。明治天皇崩御、大正時代が幕を開ける。

第8章 首相への道

 政友会が過半数を得るものの、西園寺内閣は総辞職し、反政友会派の人事で固めた桂内閣が成立するも、全国に混乱が広がり山本権兵衛を首相とする第一次山本内閣が成立し、原は内務大臣に任命される。シーメンス事件後、貴族院が海軍予算を大幅削減したため山本内閣は総辞職。大隈が返り咲く中、92歳の母が大往生を遂げた後、原は政友会総裁に就任。大隈が退陣すると長州出の寺山正毅が首相に就き衆議院解散後再び政友会が第一党に返り咲く。戊辰戦争五十年祭で祭文を読み上げる原は何を語るか悩むが妻の浅から中尊寺落慶供養願文(一音のおよぶ所、千界を限らず、抜苦与楽、あまねく皆平等なり。官軍夷虜の死のこと、古来幾多。羽毛麟介の屠を受くるもの、過現無量なり)を聞かされヒントを得る。戊辰の戦に官軍も賊軍もなくこの先の日本をどうするかという考えの違いが戦を生んだ。薩長への恨みを捨てずともいつまでも足踏みしてはならずこれからは前に進むべしとの祭文を読む。スペイン風邪が流行し出し全国で騒乱が続く中、寺内内閣は責任を取り、いよいよ原が後継者になる。西園寺の再登場を画策した山縣だが西園寺が固辞するために原の後継を認める。ここに62歳の原が、ついに、楢山から託された「柳は萌えておりますな」の言葉に象徴されるとおり、理想とする国作りのため、賊軍とされた盛岡藩出身の出の自分が藩閥政治でなく本格的な政党政治の第一歩を踏み出すことになる。

第9章 平民宰相

 首相として最初の議会で、若い頃から考えてきた、教育の振興、産業の奨励、交通と通信網の整備、国防の充実に関わる四大政策を訴える。普通選挙については、最終的に実施されるべきとの意見を持ちつつも、時期尚早であり、非暴力で民衆を育ててこそ実施すべき、そうでなければ金で票を買うというこれまでの悪弊を正せないとも考える。普通選挙に賛成する動きが激しくなる中、解散総選挙に打って出て政友会は絶対多数を得て大勝する。衆議院の門爆破、牛込電車線爆破事件が次々と起きる中、原のことを心配する側近に対して「寶積(ほうじゃく)の道」を歩む、と諭す(『人を守りて己を守らず』という意)。これを見返りを求めず人のために尽くすと解釈し、己を滅して民のために働く為政者が常に心に置いておかなければならないものだ、誹謗中傷されようと百年後に「ああよかった」と思われることをし続けるだけだ、多くの人々が恩恵を得てそれがないことなど考えられなくなる、目に見えない法律や世の中の仕組みでもいい、そういうものを作り出していかなければならないと。人事や政策にあれやこれやと次々に批判され、ことに皇太子殿下の洋行に反対する右翼の抗議運動は喧しいが、実際に欧米諸国をご覧になり日本と何が違うか自分で確かめる必要がある以上絶対に必要な事と決めて動じない。東京駅にて短刀を持つ暴漢に襲われ運ばれる。

終章 柳は萌ゆる

 浅が東京駅に駆けつけ、亡くなった原に対し、泣いている大勢の若者の姿を見て、「ここにも柳は萌えておりますよ」「人数だけなら楢山さまにお勝ちになりました」と耳元で囁く。享年66歳。

 

 明治から大正にかけての歴史の勉強に大変なった。二心を抱かず信念を持ち続ける政治家が少なくなる中で偉大な政治家の一人であったと思う。