長崎ロシア遊女館《下》 渡辺淳一

2003年5月30日発行

吉川英治文学賞受賞。

 

腑分け絵師甚平秘聞

 精密な人骨標本を床の間に飾る山脇東洋の屋敷を絵師甚平が訪ねる。京都所司代から許可を得て行う予定になっている刑死人腑分けの絵を狩野幽玄に依頼したが断られる。すると、弟子甚平が破門覚悟で代わりに描きたいと願い出てきた。当日甚平だけが藍地の結城紬の一張羅で身を清めて臨む。腑分けが進むと、皆目を伏せ顔を背ける中、甚平は素早く的確に驚くほど巧みな絵を次々と描く。2日に渡って行われた凄惨な腑分けは終了。32枚の絵を清書して東洋に持参すると、東洋が見事だと呟き絵に見惚れる。腑分け絵師と蔑まれた甚平だが、実は既に破門となっていた。京の日吉神社で妊娠5か月の女が行方不明となり、後日、バラバラになった状態で発見された。小屋の奥で男は自害して果て、腸と胎児が露出した妊婦の絵が描かれていた。東洋は話を聞いて甚平だろうと直ぐに想像した。「狂気がなければ、できぬ仕事もある」と言い、かつての腑分け図に眼を落した。

 

沃子誕生

 父了徳について産婦人科の臨床を学んだ影響を受けて加納了善は、産婦人科医院を開業したが、10年前の出来事が原因で、藪医者と呼ばれるようになった。当時、産後1か月以上は入浴が禁止されていたが了善は半月を経れば入浴を許可すべきと主張し、局所洗浄も了善は産後毎日ガーゼを替え出血が収まる4,5日後には裂傷がなければ湯タオルでふくくらいはかまわないと唱えたが、大半の医師は倍以上の期間が必要だと考えていた。了善は自分の妻が三男を産んだとき半月で入浴をすすめ、他の褥婦でも試みた結果、自信を得た。

ところが2年前に入浴後微熱が出て2か月後に死亡したケースが生じると、他の医師が鬼の首を取ったように早く風呂に入れ過ぎて毒が入ったと言いふらした。実際はもともと結核があり妊娠とお産の過労で結核が再発して産後悪化しただけだった。運悪くその後、了善のところで出産した2人の婦人が相次いで亡くなった。1人は産後糖尿病が併発し全身に感染症を起こして死亡し、もう一人は入浴した日に男を受け入れたのがきっかけと思われた。ヤブ医者出て来いと塀に落書きし、噂がまことしやかに広まり、一人佐倉医師を除いて入浴と無関係だといってくれた医師がいなかった。ある日佐倉がやって来て膣腔の中に水が入らないという事を科学的に証明しなければ安全とは言えないと言われて、了善は妻に子が欲しいといい、妊娠した妻を前に、奴等を見返してやる、入浴時期の自分の考えが正しいことを証明する、という。出産を無事終え、褥床を丹念に日々診察した。10日佐倉が訪れ、一緒に診察する、翌日20人の医師が来ると言う。妻は、生き恥をかき、夫に従うのか、家を出るのか、死んだ人間と思えば何でもできるかもしれない、などと考えて明け方ようやく浅い眠りについた。当日、診察台の上に乗った妻は股を開いた状態で固定されている。膣内にクスコを差し込み、澱粉粉を膣の内側に塗った。盥のぬるま湯にルゴール氏液を2瓶落とし、妻を沈ませた。膣内の変化を見れば、湯水が滲入したか否かが分かる実験だった。再び診察台に戻った妻の膣内を確認すると、澱粉粉は白色のままだった。了善は妻に両手をついて深々と頭を垂らし感謝の言葉を伝えた。子に名をつけてほしいと妻から言われた了善は、沃度丁幾の沃に子と書いて沃子(ようこ)とし、了善は狂ったように沃子を抱き上げ踊っていた。

 

沃子誕生、には、唖然とさせられた。