2006年11月9日発行
市の不正の有無を検査する査察官がペテルブルグからお忍びで訪れるとの手紙が舞い込んだ。市長、視学官、判事、慈善病院監督官、郵便局長らは自らの不正が暴かれるのではと不安に襲われる。2人の地主が、無銭飲食を繰り返す1人の若者が査察官だと言い出し、市長らはそれを信じて、宿を追い出されそうな若者の未払宿賃を払い家に迎えて歓待する。次から次へと出まかせが口をついて出てくる。高貴な若者だと勘違いしているなと気づいた若者は彼らから小金を出させ、陳情にきた商人からも小金を借り出す。市長の妻と娘にもちょっかいを出し、娘の肩口には接吻し、娘に結婚を申し込み、父の前で娘と接吻する。若者は叔父のところに行く、明日か明後日戻るといってその場を離れる。有頂天になった市長一家はペテルブルグの官吏に出世する夢をみる。周りも娘の結婚を祝福する。が、そこに郵便局長が現れて、実は若者は査察官でも何でもない、単なる詐欺師である証拠の手紙を持って現れて、若者が知り合いの記者に宛てた手紙を読み上げる。ところが、読み上げる人物の酷評が書かれている場面に遭遇すると、読み上げる人物が自分では読み上げられず、別の人物が読み上げるというようにコロコロ変わる。そこへ正式なペテルブルグから到着した役人からの呼び出しがかかる。最後に「だんまりの場」の末尾で「互いに目をむいて立っている。ほかの客はただ棒立ちになったまま。一分半ばかり,石と化した人々はそのままの姿勢をくずさない。幕が下りる。」(了)
ブルジョアへの諷刺小説のようでもある、余りにバカバカしい話が続き、やり取りも落語調になっているせいか、単なる吉本ドタバタ劇のような気もする。
訳者が巻末の解説とあとがきで指摘しているように、そんな深い意味はないのかもしれない。「プーシキンにおいては言葉が現実との生き生きとした関係を保っていたのにたいして、ゴーゴリは『否定の契機』を文学に持ち込み、プーシキンの伝統を断絶させてしまった」というローザノフの指摘を引用し、ゴーゴリの描く人物は肖像ではなく戯画である、ゴーゴリの笑いは諷刺の笑いでも解放の笑いでもない「現実的根拠の喪失」ゆえの笑いである、そんなゴーゴリの笑いを共有するわれわれもゴーゴリの眼を埋め込まれていると指摘する。
あとがきにはゴーゴリは世界共通の暦では1809年4月1日生まれとなるそうだ。これが噺のオチだとする訳者。面白いから、まあ、いいか。