風は山河なり 第1巻 宮城谷昌光

平成21年11月1日発行

 

裏表紙「戦国前夜の奥三河。瞬く間に西三河を支配した松平清康の驍名を聞いた野田城城主・菅沼新八郎定則は、帰属していた今川家を離れる決心をする。清康が卓越した戦術と情義の心で勢力を広げる中、新八郎は戦での働きが認められはじめる。一方、綾という女との出会いから、川原で拾った童子・四郎の出自とその周囲の陰謀が明らかになっていく。知られざる英傑たちの活躍を描く歴史巨編。」

 

三河野田城の城主の菅沼新八郎定則が語る松平清康は、徳川家康の祖父である。松平清康は世良田次郎三郎と号し、新八郎は安祥三郎と呼んだ。東三河は今川氏が版図に治めていた。新八郎が清康に謁見すると、清康は「わたしが世良田次郎三郎である」といった。「松平とはいわず、世良田といったところに累代の松平の家主がもちえなかった壮志があり、この荘志が孫の家康に受け継がれて華栄を得るのである」。清康は牧野氏に今橋(吉田)城を与えるという内約を履行した。清康は牧野を擁して東三河を伐り取った。戸田氏は渥美半島を支配していた。清康は「それがしは、清和源氏八幡太郎義家が子孫、新田太郎義重が裔孫、世良田弥四郎頼氏が末孫、松平三郎あらため、世良田次郎三郎でござる」と戸田正光に名乗り、婚姻関係を結ぶことで、戸田を伴侶とするのに成功した。清康は新八郎に、熊谷備中守を帰服させるための外交的工夫をせよと命じた。熊谷氏だけが東三河の諸豪族の中で清康に順服していなかった。熊谷家の家臣岩瀬庄右衛門に仕える伊賀の十蔵が新八郎に熊谷家の内情を告げた。新八郎は熊谷氏を説くのが至難であることが分かってきた。熊谷勢にむかって野田の兵が果敢に向かっていった。宇利城城主の熊谷兵庫入道実長、その子直安、その弟正直は火焔に追われ城を棄てて山中に逃げた。伊賀の服部十蔵は新八郎の下で岩瀬十蔵と称し、新八郎の手足となって働くことになった。