風は山河なり 第2巻 宮城谷昌光

平成21年11月1日発行

 

裏表紙「隣国・尾張では信長の父、織田信秀の力がもはや無視できないものになっていた。美濃征伐にでた清康であったが、叛逆ありという凶報が入り、戦わずして退却することを決める。しかし陣中にいるところを、乱心した家臣の息子に斬られ、命を落すことに。主君亡き後、残された嗣子を巡り様々な思惑が錯綜する中、織田、今川も三河攻略にのりだす。大久保、本多ら忠臣たちの活躍を描く第二巻。」

 

織田弾正忠家が急成長し、清康に遠征の必要が生じた。清康を輔佐した阿部定吉の才知は抜きん出ていた。が分家の信定が守山にいないことで計画に狂いが生じ、戦う前に退却した。その直後、乱心した弥七郎に清康が殺害された。『三河物語』の著者大久保彦左衛門忠教はあと5年清康が生きていたら天下をやすやすと手に入れたであろうと言い、弥七郎を日本一の阿呆と罵った。弥七郎の父阿部定吉は罪がないとされ殺されずに済み、仙千代を護る。織部正が養育した庶子の四郎は竹千代を新八郎の下に連れ帰った。尾張の織田の軍勢が岡崎城を攻めたが、追い腹を切る覚悟を決めていた松平の将士は強かった。八百の兵で八千の兵を追い払った。定吉は後見に信定を指定し竹千代を連れて城を出て伊勢に向かった。迎えるのは吉良持広で、今川の祖先と兄弟だった。ところが今川氏輝と弟彦五郎が死んだ。今川家に内紛が生じ、義元が継ぎ、ほどなく北条に背を向けて武田と結んだ。18歳の義元は11歳の竹千代(広忠)を岡崎城に還すことを約束した。牧野伝兵衛は今橋城、瀬木城、牟呂城に広忠を迎い入れた。「ところで大久保氏は三河の草莽から生じた族ではない。はるか東、関東の下野の宇都宮氏が先祖であり、三河大久保家の始祖である泰藤は南北朝のころ武人で、官軍に属し、新田義貞が戦死したあと、三河に移り住んだ。三河山間の陽光のとぼしい郷邑に松平家を興した親氏が、上州から三河に流れついたのが、南北朝合一が成されたあとの応永年間であると伝えられるので、大久保家の方が先着した族であるといえる。その松平と大久保家が君臣の関係になったのは、松平三代の信光のときで、大久保の家主は泰藤の曾孫の泰昌であった。それらのことを考えると、松平家の家風というのは、三河の風土に北関東の気風を積み上げたもので、しかもその深部に反足利の色があり、その色が清康の代に顕現したといえるだろう」新八郎は広忠を岡崎城に連れ帰った。内膳正信定は出撃を躊躇った。織田信秀松平信定を使って間接支配を行い、内乱の止まない美濃へは自身が兵馬を入れて平定する計画だったが、信定が広忠と和睦し臣従したことなどから見通しが悪くなった。信定は死に、織田勢は安祥の城を攻め、三河の兵の損傷は大きかった。信秀は信長の兄信広を城主とした。水野忠政の長女を広忠の嫁として迎えることができれば水野を松平の楯にできると定吉は考え実行した。武田晴信(信玄)が父信虎を駿河に追放し家督を継いだ。北条では氏綱が死去し嫡子氏康が国主の座に就いた。菅沼不春定則は17歳の四郎を元服させ野田四郎政則という氏名を与えた。