自家製文章読本 井上ひさし

昭和62年4月25日発行 平成27年2月24日21刷改版

 

目次

滑稽な冒険へ旅立つ前に

ことばの列

話すように書くな

透明文章の怪

文間の問題

オノマトペ

踊る文章

冒頭と結尾

和臭と漢臭

「和臭と漢臭」拾遺

文章の燃料

形式と流儀

読むことと書くこと

 

谷崎潤一郎文章読本の瑕を数えればきりがない。話し言葉と書き言葉の無邪気な混同。大文豪にしてはどうかと思われる、陳腐この上なく、かつ判ったようで判らない比喩など、谷崎潤一郎文章読本の瑕を数えればきりがない。

中村真一郎文章読本には卓見がちりばめられている。なかでも、鷗外の、漱石の、そして露伴のあの文体がどのようにして成ったかを、「文章の土台、苗床」という鍵言葉を駆使して大胆かつ細心に追跡してゆく件(くだり)は圧巻である。中村読本の前半の主題は、「近代口語文の完成は、考える文章と感じる文章との統一である。

・丸谷読本以外の文章読本の文章は、それぞれ書き手のものとしては上等とは言い難い。金のために書かれた、あるいは啓蒙読物として書かれたなどの、執筆時の事情もあるだろうが、日頃の文章より数段落ちるという印象がある。

丸谷才一文章読本は掛け値なしの名人芸だ。たとえば文体論とレトリック論を、大岡昇平の『野火』一作にしぼって展開してゆく第九章などは、おそろしいほどの力業である。なによりも文章が立派で、中村読本に凭れかかっていえば、考える文章と感じる文章との美事な統一がここにはある。

・日本語の著しい特色のひとつは、その文末決定性にある。大事な動詞ほど文末を決定する力が弱いため、動詞に動詞を連結させて複合動詞とし文末決定力の増強を図り、あるいはオノマトペを併用して文末決定力の増強を図るので、日本語の文章には複合動詞やオノマトペがしばしば多用される。

・「ひそかに」は、漢文訓読的な表現で、和文漢詩文とを強烈な文体意識で峻別していた紫式部は、この語を一度も使わなかった。「たがひに」「すみやかに」なども使わなかった。いずれも漢文訓読特有の語法だからである。

・日本語の音節はごくごく少なく、せいぜい140から150。北京官話の3分の1、英語の30分の1。音節の数が少ないから自然、同音異義語が多くなる。日本語に同音異義語が多いのは漢字のせいではなく、音節数が少ないせいである。日本語の音節数は約140。英語の音節数は約4000(7000という説もある)。この同音衝突地獄に救いの手をさしのべているのが、漢字。ヨーロッパの言語などでは、同音が衝突した場合、混乱を避けるためにどちらか一方の語が、別の語に置き換えられてしまう。発音の異なっていた英語のquean(女)とqueen(女王)が音声変化によって同音語となったために、現在ではqueanはほとんど使用されず、「女」を意味する場合はwomanで置き換えられている(三修社『音声学大辞典』)。

・巻末のパルバースの解説では、日本語はさほど豊かな「体験」をしている言葉であるとは思っていない、英語はイギリスからアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドと、新しい開拓地、植民地へ渡り大きく変化した。新しい社会制度や生活習慣、人間関係から、新しい言葉、新しい表現が生まれた。それに対して、日本語は、明治以来の西洋文化の急速な導入にともなって数々の新語は生まれたが、日本語そのものが海外を放浪して生まれ変わるといったことはなかった、という。日本語が英語のような豊かな体験を得ることは今後も望めないだろうが、日本語には万葉集以来の伝統がある。その伝統を柔軟に捉え、かつ徹底的に掘り起こして、日本語の文章のエッセンスをつかみあげていると述べる。