私の履歴書 萩原吉太郎(北海道炭礦汽船社長) 日本経済新聞社 経済人5

昭和55年8月4日1版1刷 昭和58年10月24日1版8刷

 

①小学校5年まで母の実家で育つ

②京華商業から慶応へ進む

③”大学残り”を中止して三井合名へ

④病欠二年、各課をたらいまわし

⑤秘書課勤務、賞与計算で大失敗

⑥北炭に移り秘書部長となる

終戦直後二割の人員整理を断行

⑧常務に就任、誤解や中傷集まる

⑨率直にぶちまけて追放を免がれる

⑩石炭の“斜陽化”を予言

⑪忘れられぬ高橋先生の高恩

 

・故郷は松戸の先の北小金。埼玉県人の誤伝は父が後年蕨へ隠棲し母の里は蕨の在の戸田町にあり、生まれてすぐその母の実家に連れて行かれて小学5年までそこで育ったからだろう。慶應義塾予科に進み、アダム・スミスジョン・ロック、デビッド・ヒューム、モンテスキューなどの古典を10冊ばかり借りて貨幣論を徹底的に調べ見た学会雑誌に発表した。高橋誠一郎先生の紹介で三井合名に入社したが、早々に肺尖カタルになり2年休職した。調査課、統計係、外国の新聞の翻訳等の仕事が面白くなく評価が悪かったので秘書課に回された。物産からカミソリと言われた島田勝之助さんが来て、島田さんの秘書になった。岩田富美夫という右翼の大物が池田成彬さんに面会を求めに来た際に代わりに応対することになったのがきっかけで児玉誉士夫氏と知り合いになった。島田さんが北炭の会長になったので北炭に移る決意をした。1年半ばかりで人事部長兼秘書部長となった。昭和22年は組合の勢力が強くなり重役総退陣の要求が突き付けられ総退陣ということになった。常務となった2か月目で追放令違反に問われた。申し開きの立つことではないのでありのままぶちまけた。すると誠意というものは万国共通で無罪放免になった。社長になると、燃料革命を予言し、東京瓦斯や富士製鉄と長期契約を結んだ。理研の亀山直人先生に石炭化学の新しい道を開拓したいと相談した。石炭化学研究所が出来、亀山先生が初代所長になった。慶応の仏教青年会で学んだ、縁あって結ばれたからには絶対に相手を裏切らない、人の恩は秦でも忘れないといった生き方は今も生活の信条としている。(昭和42年北海道炭礦汽船会長に就任。44年再び社長。47年取締役相談役。50年より会長)