私の履歴書 堀久作(日活社長) 日本経済新聞社

昭和55年6月5日1版1刷 昭和58年10月30日1版11刷

 

①最初の勤め

②ふろ釜で一儲け

③映画界へ

④日活再建時代

⑤命の綱、千葉銀の融資

⑥逸早くトーキー採用

⑦大蔵次官と夜明けの談判

⑧中傷よりひどかった実情

⑨国際会館建設

⑩父の遺訓を生涯守る

 

・8歳の頃に父を亡くし母親一人の手で育てられた。大倉高商を出て東北の小さな炭坑の会計に入った。帳面の記帳を間違えてあべこべにつけたのを2日2晩徹夜してつけかえて退職した。ふろ釜とストーブを製造する日本完全燃焼株式会社に勤め、工場法案が通過した直後に鉄道の従業員用の浴場施設にふろ釜を取り入れるよう各地の管理局長に交渉して莫大な売り上げをあげた。独立して石炭の小売販売店を出したがこれは失敗。株式会社山王会館(現在の山王ホテル)を引き受けたが、上手くいかず、ホテル経営をやりたいという安全自動車の中谷君に譲った。松方乙彦氏から映画を引き受けたらどうかと言われて引き受けたら、すぐに金の心配を頼まれた。千葉銀行から融資を引っ張り出すのに成功し、引き続ぎ財政の切盛りをすることになった。役員としてバランスシートを見ると酷い赤字で、サイレントからトーキーに切り替えさせた。千葉銀行が大蔵省から指導されて日活の融資回収に回りかけたために大蔵省の次官の仮宅に明け方飛び込み、局長と談判して追加融資を認めさせた。20数年間、日曜、祭日、元旦と1日も休んだことはない。借金によって物を作るときは必ずいいものをつくることだ。金を借りて悪いものをつくったら回収がつかない。二つとないいいもの、あとで真似のできないものをつくること、これが事業の要諦である。

(昭和46年日活取締役相談役、49年11月14日死去)