水俣の人びと 桑原史成

1998年6月22日初版

 

表紙裏「水俣病による補償交渉(訴訟)は終息し、水俣湾に設置されていた仕切り網も昨年(1997年)に完全撤去された。補償問題はひとまず“解決”し、患者とその家族の痛みと辛苦の生活は、金銭によって贖われたと言えよう。過酷な運命に翻弄された水俣の人びとは、私などでは耐え抜くことが不可能なほどの屈従を強いられてきた。いま、水俣病との闘いで家族たちには逞しく現実的な価値観を優先する生き方が芽生えたように感じる。(「あとがき」から)」

 

・県に仲裁を依頼した「一任派」と、「訴訟派」という2通りの方法で補償の手続きが続いていた。

水俣患者の顔写真が多数掲載されている。衝撃的だった。今まで言葉でしか理解していなかった。少なくとも写真は文字より患者の実情を訴え掛ける力が間違いなくある。漁師の漁手ゆびの変形した写真も凄まじい。

・裁判所は見舞金契約を無効と判断して慰謝料を認めた。

・「あとがき」に、「もう写真はよか!」との一言が目に止まった。これ以上撮影されたくない、という言葉だ。

 

写真を侮ってはいけない。文字を読んでいては分からないことがある。文字を読んでばかりで分かった気になってはいけない。