コタバル 0215 アジア太平洋戦争のホントにふれる 札幌郷土を掘る会編

1997年12月5日初版発行

 

目次

コタバルの朝

華僑虐殺

「女性狩り」

タイ泰緬鉄道工事の強制労働

軍票

抗日義勇軍のたたかい

「多くの人にひろめてください」と託されて

アジア太平洋戦争の侵略の姿

戦後補償とアジアの平和

 

・1941年12月8日、日本時間午前0時すぎ、日本軍艦はコタバル海岸や市内のイギリス軍に向けて艦砲射撃による奇襲攻撃をかけた。それは、海軍によるハワイ真珠湾奇襲攻撃時刻の午前3時15分より3時回以上も早く、つづいて双方の砲撃戦の中午前2時15分、日本陸軍はサバック海岸とその北隣のパタン海岸に上陸をはじめ、激戦となった。

・日本軍はイギリス軍と戦いながらマレー半島を南下し、東南アジアにおけるイギリスの軍事拠点シンガポールを攻略・占領しようとした。シンガポールの上空からは戦闘機による爆撃で、いわば挟み撃ち作戦。北部からの主力部隊は、中立国であったタイ国の東海岸にあるシンゴラ、パタニから上陸した部隊。コタバルヘの上陸は、それらの部隊がスムーズに上陸・侵攻できるようにコタバルとその周辺にある三つのイギリス軍飛行場をおさえるためで、その目的は完全に達成された。主力部隊は一時タイ国と戦闘になったがすぐおさまり、難なく西海岸に到着、インド兵を主力とするイギリス軍と戦いながら南下。日本軍の“快進撃”がはじまった。

 

そもそも真珠湾攻撃より先にコルタバというマレーシアでの戦闘が起きていたこと自体、知らなかったが、アジアでの日本軍の残虐さは目に余る。本書で掲載されている、本軍の拷問で手足をつぶされた王伍尾さんの写真は衝撃だ。両手の指と右足の指がない。軍靴で踏みつけられて手足の指を失った写真に思わず絶句した。朝日新聞95年5月21日がこの写真を掲載し報道していた。全く知らなかった。国家主義歴史修正主義への歯止めをかけるためには過去の歴史を正面から認識し、それを日本の中で風化させない努力を続ける必要があることは間違いない。