スーチーさんのいる国 ビルマと日本の接点 早乙女勝元編

1996年7月26日初版発行

 

目次

1 スーチーさんに会えるかも

2 「死の鉄路」とビルマ労務

3 ロンジー姿の人々の町

4 アウンサン将軍とスーチーさんのメモ

5 対話は過去・現在・未来へと

6 スーチーさん、お元気で

あとがき

 

・平成8年と言えば今から25年も前のことになるので、相当古い内容の本である。が、ミャンマーのことはほとんど余りしらないので、古い本を読んで一度ミャンマーのことを知り、その上で最新の本を読んでみようと思った。

・名前だけは誰もが知っているスーチーさんだが、どうして世界中のニュースになるのか、まだよくわかっていない。

・が、この本で、1991年10月、非暴力によるミャンマー民主化運動の貢献によりノーベル平和賞受賞。ビルマのキーワードで、『ビルマの竪琴』、インパール作戦を思い描くが、国土を戦場とされたビルマ人の被害と犠牲はどのようなものだったのかという問題提起から始まる。

・タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の工事に駆り出された東南アジアの人びとは、猛暑に苛酷な重労働、食糧や医薬品不足で、飢えと病に死者が続出し、枕木の数ほどの犠牲者を出した。このため「死の鉄路」と言われ、有名な映画「戦場にかける橋」は、この泰緬鉄道のメークロン橋にヒントを得て制作された映画だ。デヴィット・リーン監督、ウイリアムホールデン主演でアカデミー賞を総なめにしたから記憶にある方も多いだろう。ただ著者は、この映画にアジア人労務者たちが登場しないことは、いまにして思えば、それが惜しまれるという。

JEATH戦争博物館(「死の鉄路」にかかかった日本、イギリス、アメリカとオーストラリア、タイ、オランダの頭文字を配列した博物館)の入口に表示されてあった言葉は「FORGIVE BUT NOT FORGET」 許そう、しかし忘れない、である。もう一つのカンチャナブリ戦争博物館では、アジア人労務者の死者数が約10万人と記録されている。

・スーチーの父アウンサン将軍はスーチーが2歳の時に暗殺された。母は国会議員となり社会福祉大臣を務めた後、インド大使に任命され、スーチーもインドで思春期を過ごした後、イギリス・オックスフォード大学で学び、その後国連本部で働く。祖国に戻り国民民主連盟の書記長として国民議会の総選挙で遊説して回った。1989年7月20日、軍事政権はスーチーを国家と国家を分裂しようと企てたことを口実に自宅軟禁拘束状態にした。総選挙で8割の議席を獲得したものの、選挙結果は無視され幽閉状態は溶けず、6年も軟禁は続いた。その中で91年にノーベル平和賞が贈られた。そして1995年7月10日、ようやく軟禁状態が解除された。もっとも軍事政権はその後もい障りを続け、外出は相変わらず厳しく制限された。その中で著者は96年にスーチーの取材に成功し、過去・現在・未来をスーチーから聞き出した。日本がビルマにこれまでに5000億円を超える経済援助をしてきたことやこのほど食料増産援助などの無性援助に踏み切ったことについて、スーチーはこの瞬間に止めるべきである、日本政府がやってきたこと、やろうとしていることは軍事政権を助け、私達への抑圧をさらに酷くするだけだと。

・やはり古い本だったが、読んでよかった。スーチーさんの基本的なことが分かっていなかったことが知れたことで、ひとまず満足した。今度は現在のミャンマーとスーチーさんのことを語った本を読みたいと思う。