戦争とインドネシア 残留日本兵 長洋弘

1997年8月15日初版

 

目次

悲しみはいつまでも

インドネシア

日本が戦争に負けた日

長い旅のはじまり 

インド洋のみえる小さな村

妻の墓に土下座したい

スマトラの暑い夏

山田記者の手紙

深い深い心のいたみ

ジャカルタでの写真展

あとがき

 

・1982年4月、インドネシアジャカルタ市にある日本人学校の先生になった。インドネシアスマトラ島の一番先から、ニューギニア島の南まで約5000キロもあり、約1万3000の島々からなる。総面積でいえば日本の5倍もある。

1984年1月、日本語のわかる自動車修理工場を探した。知人に紹介されたのが藤山さんの工場だった。横山さんは自らを脱走日本兵だと名乗った。昭和17年4月に出征しビルマで戦った後インドネシアに来た。人生が狂ってしまったのは、1945年8月17日のことだった。『ジャカルタ市内を警備せよ』との命令を受け、スカルノの家の前に行った。

スカルノが文書を読み終えると群衆は手をあげ熱狂した。 インドネシブの独立宣言の内容は、「我々インドネシア民族は、ここにインドネシアの独立を宣言する。権力の委譲、その他に関する事項は周到かつできるだけの迅速さをもって実施されるものとする。インドネシア民族の名において。1945年8月17日、スカルノ、ハッタ、ジャカルタにおいて」。

・残留元日本兵の会を紹介され、複数の人から話を聞いた。独立戦争が終っても、脱走した元日本兵だとわからないようにインドネシアで生きてきた。逃亡兵、非国民とよばれるのは私だけでなく、親戚も巻きぞえになるからだった。

インドネシアには千人とも二千人ともいわれる元日本兵が戦争後も残り、独立戦争に参加したといわれているが、その多くは異国の地で死んでいった。

・あとがきに「私は好きで残ったわけではありませんよ。どうして祖国を捨てることができましょう。どうして妻子を捨てることができましょう。残らざるを得ない理由が戦後のインドネシアにあったのです。そのことを祖国の人たちにわかってもらいたい」とのうめき声が聞こえた、とある。このような残留日本兵が沢山いたということも殆ど忘れ去れている。