外交の瞬間 私の履歴書 牛場信彦

昭和59年7月24日1刷

 

・昭和7年に外務省に採用され、1年の研修生活を終えた後、外交官脯としてベルリンの駐ドイツ大使館勤務を終えると、帰国して条約局第2課で仕事をした後、革新派は一掃され、ロンドンに出された。帰朝後、再びドイツに行って帰国後、外務省政務局第4課に配属され、終戦後は終戦連絡事務局に移り、第5部第1課長になったが、昭和21年7月1日に外務省を辞めた。浪人時代にドイツ時代の大島浩大使が戦犯として起訴されたので弁護人の仕事を2年続けた。24年7月11日に外国為替管理委員会の事務局長をやり、26年6月に通産省の通商局長になる。29年7月に外務省に戻り官房審議室の参事官として復帰した。駐ビルマ大使館参事官として赴任し、官房審議官としてオーストリアの通商交渉を担当。32年に経済局長に任命された後、ガットの東京総会開催と日本に対しガット35条を援用する国との撤回交渉に当たった。横田事務次官の就任に備えて外務審議官を務め、日韓会談の政府代表を命じられた。請求権問題、漁業問題、在日韓国人の法的地位の問題、竹島問題等、難問だらけだった。42年4月に外務事務次官に就任し、小笠原諸島沖縄返還交渉、非核三原則があった。その後、駐米大使時代に沖縄返還と繊維交渉に没頭している最中、ニクソンの電撃訪中があった。直後にドル・ショックが襲い、佐藤・ニクソン会談、田中・ニクソン会談など、目まぐるしい。2年9月で駐米大使を退任した。50年から仏・米・英・独・日にイタリアを加えたサミットの準備が始まり、準備会議の日本代表に任命された。福田内閣改造の際に対外経済担当大臣に請われ、大平内閣に替わった時点で政府代表だけは務めることにした。54年の大平内閣改造の際は賢人会議の日本側座長を引き受け、鈴木総理の時代も日米諮問委員会で日本側座長を引き受けた。市場開放のための通商オンブズマン諮問会議座長なるものもやっている。勲一等旭日大綬章を拝受し、ジャパン・ソサエティから59年に日米関係に顕著な貢献をした人として賞を受けたのには感激もひとしおだった。