昭和56年2月20日1版1刷 昭和58年12月22日1版6刷
①田中正三翁に傾倒-足尾鉱毒事件で活躍
②生地・両親-家の復興を願う母
③北海道へ-宇都宮牧場で牧夫に
④結婚-小学校の女教師と挙式
⑤組合設立-雪印の商標決める
⑥海外市場-バターの輸出にふみきる
⑦酪農振興策と酪連の事業
⑧準戦時体制-興農公社の設立
⑨終戦-三分割された会社
⑩「健土健民」の理想に向かって
・明治34年12月12日朝、17歳の私は、田中正造が天皇陛下に直訴に及んだ事件、直訴状の全文が掲載された新聞を身震いする感動をもって読んだ。三等旅館に泊まっていた田中先生を訪ね、合掌したい気持ちになった。内村鑑三を団長とする災害地学生視察団に参加し、以後救済活動に挺身した。が昭和35年に家宅侵入罪で逮捕され、そこで今村力三郎弁護士と婦人矯風会の副会頭潮田千勢子さんと出会う。1審2審と無罪で、拘留6か月後前橋監獄を出た。篤志家に学費を出してもらい京北中学を卒業後、明治38年北海道に渡り一牧夫となり友人と共に雪印乳業を興す。心のなかには田中先生の国土第一主義に共鳴していた。
・明治18年3月28日茨木県生まれ。尋常小学4年を卒業し家業に従事したが、勉強への情熱を抱き続け、漢学塾に通い、十八史略や日本外史を学び、涯水義塾へ通い、知行合一の水戸学の精神を身につけた。上京し私塾の小使い兼給仕として住み込みで働きながら勉強した。母の死で一家の責任を果たすため20歳で北海道行きを決断した。牛を飼う宇都宮仙太郎の下で牧夫になる決意をし、午前3時に起床し、仕事の合間に勉強をした。42年に酪農自営の第一歩を踏み出し、午前3時起きは変わらず、夕食が10時頃の生活を続けた。酪農の第一歩を踏み出した際、経営5か年計画を立てた。大正12年の関東大震災により、酪農家に思わぬ被害を受けた。アメリカから救援物資として大量の練乳が届き、北海道の練乳会社の受け入れ制限が始まった。練乳会社の言いなりにならずに、自分達の手で牛乳の処理機関を共同して作る動きとなり、大正15年に産業組合法による有限責任北海道製酪販売組合(のちの雪印乳業)が誕生した。組合員数629人、出資1口20円とし、本工場を苗穂に建て、組合長に宇都宮仙太郎氏、専務理事に私が選出された。事業はクリーム、バター、チーズを書こうし、それらの製品と牛乳を販売することが決まった。雪印の商標を決めたのが同年12月、冷蔵貨車使用開始が昭和2年からだった。バターが臭い理由は海水から製した塩を使ったのが原因だと分かり、品質改善を目指す。道会議員、市会議員に当選。品質改善のため技術者は禁酒禁煙を守り、酪農全体の規則にし、この誓約はつい最近まで雪印入社の条件となった。昭和9年に宇都宮会長が脳溢血で倒れ、私が会長の後任に選ばれた。昭和16年北海道興農公社が発足し、酪連は発展的解消となった。酪連系と練乳会社系が一緒になったので、社長に推された私は一円融合、和協一致を目指した。戦後、会社三分割の指令が出され、公職追放された。三分割が最終的には雪印乳業と北海道バターの二会社に分かれた。社団法人北海道酪農義塾は昭和8年に設立され、私は塾長として先頭に立った。農民道五則、一、農民は誠そのものたれ(天地と心を通わせる)、一、農民は天地の経綸に従え(土地の役目を知って研究せよ)、一、農民は土を愛せよ(土地を肥やせ)、一、農民は勤労を尊び倹約を守れ、一、農民は協力一致せよ(産業組合によって団結せよ)を毎朝朗誦した。戦後は三愛女子高等学校、酪農学園短期大学、酪農学園大学などをつくった。三愛とは神を愛し、人を愛し、土地を愛す、である。(昭和57年2月6日死去)