小原鉄五郎(城南信用金庫理事長) 経済人13

昭和55年12月2日1版1刷 昭和58年12月22日1版7刷

 

①故郷は東京の寒村―総理大臣を夢見る

②小学校時代―隣家の少女に淡い恋心を

③百姓を廃業―「大崎信用組合」の主事に

④関東大震前後―「組合」が着実に伸長

性善説を信じ融資―自腹を切ることも

⑥台湾視察―“三国芸者の競演”に感激

⑦15の組合が合併し「城南信用組合」発足

⑧戦後処理から飛躍へ―百億貯蓄に邁進

⑨信組法廃止―「信用金庫法」制定に努力

⑩理事長に就任―米国旅行で学ぶ事多し

全信連会長に信金専心の伝授に行脚

⑫“小原鉄学”で国民大衆の福祉向上を規す

 

明治32年10月28日東京大崎生まれ。当時の習わしで“捨て子”だった。幼い頃は毎朝2時に起きて百姓仕事を手伝った。第一日野小学校高等科を卒業後、百姓仕事に精出した。大崎町長の立石知満さんの知遇を得て、大崎信用組合創設時に主事に採用された。大崎信用組合大正8年7月9日従業員3人で正式に発足。初年度加入組合員数233人、出資総額4万8円、大正9年は364人、5万5050円で滑り出しは順調だった。夕方6時から夜10時まで講習会で勉強を続けた。世の中に取り付け騒ぎが起きた時も大崎信用組合では一般預金者が姿を現したことがなく、翌昭和3年には現社屋の4階建ての事務所を建築した。“人間が担保”という考えでこれまで進んできた。相手の人間、器量に応じた融資態度が必要である。立石さんから引き継いで45歳で専務理事に就任(組合長は空席)し、合併問題に取り組む。終戦直前に合併調印にこぎつけ、新しく城南信用組合として誕生した。5日遅れたらわからなかった。他の元組合長は皆年配者だったため組合長就任の要請を断り、組合長は別の方に就任してもらい、私は専務理事に収まることにした。発足時の預金高は1億5千万円だったが、昭和23年3月末には5億35百万円の成績を見せ、5年後は百億の目標を掲げた。結果は百億にこそ達しなかったが、85億円(16倍)の預金獲得に成功した。昭和26年信用金庫法が成立。昭和31年、56歳で理事長に選任され、次は3百億をめざした。現在、地下2階地上11階の本店ビル建設中だが、2千億円の城南になった今日ではいよいよ人づくりが大切な時となった。昭和38年には全国信用金庫連合会会長に就任。現在では全国信用金庫預金量6兆7千億円のうち連合会に預託されている金額は8千億円にまでなっている。国際化が進み、信用金庫が国内金融だけで事足れりの時代は過ぎ、東京銀行との間で外国為替業務提携をした。(昭和50年より城南信用金庫会長)