井植歳男(三洋電機社長)私の履歴書 経済人7

昭和55年9月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷

 

①信心深い母、きびしかった父

②父母の意思に反して船に乗る

③義兄松下の庇護を離れて一職工に

④甲種合格で独立計画はお流れ

⑤再役すすめられるほどの模範生

終戦、義兄の身代わりに退社

⑦松下をやめ「停電灯」であてる

⑧発電ランプ念願の海外進出に成功

⑨せんたく機で社長室は水びたし

⑩労使の反省で安定した組合へ

⑪事業発展の余地は大きい

⑫「山つぶし」が最高の趣味

 

明治35年12月28日淡路島生まれ。父は千石船を持ち自家貿易をしていた。高等科1年の時に父がこの世を去り、自分も船乗りになりたかったので、卒業証書だけもらい、叔父の船に乗り込んだ。“板子一枚底地獄”の生活で鍛えられた。船を降り、義兄の松下幸之助が自立の準備をしていた頃、誘われて、一緒にソケットを作り始めた。買い手がつかなかったが、扇風機の碍板の注文が入り忙しくなった。松下電器製作所発足後、職工学校で製図や設計を学んだ。単身で東京に出て販売を始めたが、普通の2倍のカヤを買ったことで義兄から厳しいお叱りを受けた。東京で他流試合をしたくなり、松下の事業と競合しない仕事を選んで朝日電機へ職工として採用された。資金を溜めて松下に再び戻り、震災の前後で大阪と東京を行き来した。甲種合格して旅順港の重砲隊に入隊した。除隊の折、模範兵として職業軍人を勧められたが断った。松下電器製作所が株式会社になると専務に就任し、子会社の役員も兼務した。戦争に突入すると木造船の製造が命じられ、流れ作業でこれを実現した。戦争の先が見えたので事業の手を広げず、終戦後、義兄だけを残して私は退社した。借金が残っていたので住友銀行から借金をカタに融資を受けた。進駐軍への電気スタンドの売り込みから始め、自転車の発電ランプを作ろうとして三洋電機製作所を設立した。国内のみならず海外進出した矢先、朝鮮動乱が起こり、ニッケルの使用制限が行われたために苦境に立たされたが、原石を輸入してこれを精錬する方法を思い立って急場を凌いだ外、ラジオや電気せんたく機を手掛けた。せんたく機の研究を社長室で行ったので社長室はいつも水びだしになった。当時5万円もした国産のせんたく機を2万円台で作ることを目標した。テレビ、自家水道装置、冷蔵庫、扇風機、暖房機と次々に新製品が加わり、毎年3,4割の成長を続けた。労働問題には苦労した。三洋という社名は太平洋、大西洋、インド洋になぞらえたもので海外進出を目指した。今日では各種電化製品の総合生産工場となり、資本金198億円、従業員1万人、今年の売上目標は700億円以上となった。(昭和43念三洋電機会長に就任。44年7月16日死去)