昭和55年6月5日1版1刷 昭和58年10月30日1版11刷
①「よし偉いもんになったるぞ」
②波瀾の第一歩奉公先第一号
③無一文で横浜へ
④職業遍歴―三日と続かず
⑤キレ者安治川の“栄吉”
⑥浮世ざんげ
⑦心痛むお雪の思いで
⑧あてもなく踏む異郷の土
⑨「美文之資料」で就職依頼状
⑩ピストル持って金捜し
⑪クーリー船の人買い男
⑫人生再出発は元金十銭
⑬段ボール機のヒント得る
⑭第二の“母の胎内”二畳座敷
⑮段ボール完成
⑯同じ胸の病で第二の妻を失う
⑰聯合紙器創立
⑱「苦しかった過去」を持つ楽しみ
・戸籍では明治15年10月3日播州に生まれる。14歳で石炭問屋の奉公先に連れていかれ、洋紙店、運送屋、聘珍楼、パン屋、砂糖屋、洋服屋、材木屋、石炭屋、雑穀商をやり、満州に渡って雑貨屋、墨の行商をやり、旅順へ向かった。牛肉の行商等をした後、香港へ。この船で知り合った阪大佐太郎に後日帰国させてもらう。帰国後、つけ物の売り歩き、ミシンの外交の仕事をやり、漸く2畳の部屋を借りることが出来た。これが第二の“母の胎内”となった。奉天で知り合った池田良栄を訪ね、荒川、石郷岡、一志の3人の出資者を得て、段ボールを作った。三盛舎から三成社に社名を改め実用新案特許を出願して認可され、特許段ボールとして市場に出した。朝6時から夜11時まで馬車馬のように働いた。ドイツから段ボール機械を輸入し、第一次大戦で大躍進を遂げ、大正9年に聯合紙器株式会社を創立。戦後年間70億の売上となった。(昭和38年11月10日死去)