昭和56年1月13日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷
①貧乏の境界―貧困の中で人生学ぶ
②戸主の自覚―母の手助けにと新聞配達
③母の宗教心―朝夕、法華経の勤行
④中学校時代―冬も素足にげた通学
⑤熊本高工へ―新設の電気化学専攻
⑥井上電機時代―誘導と敗戦―自宅も京都・鳴滝へ転居
⑦どん底生活―自転車で自ら行商に
⑧立石電機製作所―大阪・東野田町で創業
⑨疎開と敗戦―自宅も京都・鳴滝へ転居
⑩妻の死―養生の努力も水泡に
⑪オートメに着目―制御継機器を開発
⑫夢のスイッチー無接点下に成功
⑬還暦で再婚―長女のしゅうとめと
・明治33年9月20日熊本市生まれ。貧しかったため小5から新聞配達のアルバイトをした。生活状態から中学進学は諦めていたが、受け持ちの大村益人先生が進学を勧めてくれたお陰でアルバイトをしながら熊本中学に進んだ。熊本高工で電気化学を有望とみて1部に入る。卒業後、兵庫県庁土木科技手としてサラリーマン生活が開始。県営発電所建設の調査を担当したが、すぐにやめてしまい、吉瀬茂雄君に紹介されて川北電機が下請けに出した井上電機製作所に入社した。誘導型保護電器を担当したが、この技術を見につけたことで後に立石電機創業へとつながった。井上電機を希望退職でやめた後、ナイフグラインダーに手を出し、その後レントゲン撮影用のタイマーの優秀なものが必要だと聞いて誘導型継電器を使ってタイマーを作り日生病院で採用されたのがきっかけでOEM契約が出来、立石電機製作所を創業した。継電器の専門工場の触れ込みで広告に掲載すると高岳製作所から大量受注を受け、急速に一人前に育っていった。大阪に本拠兼工場を構え、東京出張所を設ける。戦後、電流制限器を開発生産を始め、生き残り競争に勝ち残ったことで作れば作るほど売れる。ところがドッチラインの設定により倒産し掛けるが、思い切ってオートメーション機器の生産を開始する。そしてトランジスタを使うことで無接点スイッチが出来そうだと閃き、これが画期的な技術革新となり、スイッチの寿命が半永久的に伸びた。自動制御技術に電子計算機を組み合わせたシステム開発に続き、乗車券自動販売機の開発、車両検知器開発、自動感応系統式殿試交通信号機システムへと転換し、更にローン・マシン、オンラインの自動現金支払機、航空機搭乗券自動販売機の実用化を果たす。(昭和54年より立石電機会長)