昭和55年8月4日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷
①五十年前の苦難いまも眼前に
②九歳でかざり屋に年季奉公
③徳尾錠を作り特許をとる
④寝食忘れ繰り出し鉛筆を完成
⑤大震災で一瞬に事業家庭を失う
⑥鉱石ラジオの組み立てに成功
⑦思いもかけぬ差し押え
⑧戦後の混乱補償金返済に苦しむ
⑨倒産寸前最悪の昭和二十五年
⑩身体障害者のために「特選工場」
⑪“育徳園”と“ニコニコ函”
・明治26年11月3日日本橋で生まれ、大正元年(明治45年)9月15日、自分の店を持って独立した。3歳で養子に出され9歳で小僧として働いた。ここで錺屋の技術を習得したことが生涯の事業を決定づけた。シャープペンシルという繰り出し鉛筆は周知だが、シャープを早川電機の商号とした。関東大震災で一瞬にして事業と家庭を無くした。31歳の時だった。アメリカ製ラジオを分解研究して、電気の初歩も知らない自分たちが手探りでシャープラジオ受信機第一号を製作した。大ヒットだった。昭和7年にはラジオ聴収者は百万人を超えた。早川金属工業株式会社と改称し、ベルトコンベヤーシステムによる量産で1台56秒で作った。昭和17年には早川電機工業株式会社に改称したが、戦後の混乱で借入金が1億円を超え、人員削減と共に融資の道を何とか会社再建を果たそうとした矢先、朝鮮動乱が起き、久々の黒字決算となった。ラジオ聴取者1千万人を突破した頃、テレビの試作に成功した。「信用」「資本」「奉仕」「人材」「取引先」という5つの蓄積を社是として実践してきた。失明者や聾啞者、四肢不具者が働くラジオ・テレビ部品作業の下請けの特選工場の利益は点字図書の購入に充て、昼休みはこれらの書物を手探って指読する人たちの姿が見られる。(昭和45年シャープ〔早川電機工業より社名変更〕会長。55年6月24日死去)