昭和55年6月5日1版1刷 昭和58年10月30日1版11刷
①父から剣道の手ほどき
②若い血を湧かしたころ
③一橋卒業前後
④「日東紅茶」出現への草分け
⑤藤原さんの王子製紙へ
⑥窮状の王子製紙時代
⑦「電気化学」との電力問題
⑧国産発電機で成功
⑨追放解除でラジオ東京社長に
⑩囲碁と将棋
⑪実業界の第一線で
⑫動物飼育にも現れる“性分”
⑬処世訓「謙虚に立場を尊重」
・明治16年2月28日鳥取県生まれ。家業は酒造り。松江中学、東京高商(今の一橋)に進み、商事会社に入社した。台湾赴任後、後に王子製紙を築いた藤原銀次郎さんが台北支店長をしていてその下で働き、藤原さんが王子製紙に入ると、私も王子入りした。大正6年に苫小牧工場長になり、同9年に取締役、昭和8年に常務となった。昭和13年藤原さんが商工大臣になり、昭和17年に私が社長になった。終戦の翌年辞表を提出。パージ解除後、ラジオ東京の社長に就任。日本棋院の理事長に推されたのは5段のほか、父が碁好きだった影響がある。将棋は4段。卓球協会会長になったのは昭和29年。32年、藤山君が外相就任のために商工会議所会頭を辞めたので私があとを引き受けた。藤山君が財界を出たのは残念である。(昭和35年ラジオ東京会長に就任。日本民間放送連盟など種々の団体の会長を歴任。昭和48年3月29日死去)