草原の風《下》 宮城谷昌光

2011年12月10日初版発行

 

劉秀は耿純に猛志があると痛感した。耿純は宋子県の城に乗り込み降伏させた。劉楊と同盟を組むために劉秀は楊の姪郭聖通を後宮に入れた。劉秀軍は李育軍を大破した。幽州の騎兵隊が劉秀の下に到着した。騎兵を率いてきたのは呉漢だった。元は馬商人だったが更始帝の使者の韓鴻に見出されて一日で県令に昇った。王郎は劉秀を急襲するつもりで部隊を送り込んだが、待ち伏せされて大半を失った。劉子輿に成りすました王郎の目論見は失敗に終わった。邯鄲城は落ちた。かつて劉秀は王覇に疾風にして勁草を知ると言った。後世の訓示である。王覇は王郎を討った。璽綬(じじゅ)は劉秀に届けられた。更始帝の近臣や大臣は劉秀を無力にするために劉秀の兵権を取り上げようとした。簫王(しょうおう)に任じられた劉秀だが、河北を鎮圧するため猶予を賜りたいと述べた。劉秀より一足先に出発した呉漢と耿弇(こうえん)は劉秀の下に復命にきた。降将たちは劉秀の赤心に触れた。自分の真心を他人の腹の中に預ける。劉秀は赤心を推して人の腹中に置いた。劉秀は寇恂を河内太守に、大樹将軍を呼ばれた馮異(ふうい)を孟津将軍に任じた。王莽政権を批判する形で武器を執った馬武は更始帝を裏切らない謝躬に属いて軍事を行ってきたが、謝躬が殺されると目が醒めたように劉秀のもとへ詣った。劉秀は厚遇した。後に馬武は命じられたわけでもないのに手勢を率いて殿軍を行い、時に引き返して敵を陥落させるという殊功を樹てた。劉秀は諸将から皇帝号を奉ろうという声があることを聞き、困惑した。伋から覇者と王者の違いを聞かれ、「人民とともにあり、人民に支えられるのが王者であり、人民を支配するのが覇者だ」と答え、伋は劉秀が周の文王に勝るとも劣らぬ人になると確信した。赤い龍に乗って天に昇った夢を見た劉秀の下に彊華が訪ねてきた。『赤伏符』という古い書物を持って見せに来た。「劉秀は兵を発して不道を捕らえ、四夷は雲集し、龍は野に闘い、四七の際に、火は主と為らん」とあった。劉秀は帝位に登った。朱鮪は洛陽城を明け渡し、劉秀は朱鮪を平狄将軍に任じた。劉秀は陰麗華を迎えた。赤眉、公孫述の蜀を討ち、天下平定はほぼ成った。劉秀は42歳だった。