華栄の丘 宮城谷昌光

平成12年2月20日第1刷発行

 

華元(かげん)は宋の国の大夫である。29歳で家督を継ぎ、34歳になった。君主の昭公に忘れ去られたように職管はない。宋の前身は商(殷)である。商は周の武王に倒され、周王室は武王の子の成王の時に王室の血胤(いん)を持つ微子を宋に封じて建国を許した。故に宋は商(殷)の遺民の国である。宋の襄公は英主だったが、無用の思いやりをかけて楚に惨敗を喫した。華元の家は宋の公室の分家である。華元は五代目の当主である。即位して9年になる昭公の評判は悪い。昭公の腹違いの弟の公子鮑(ほう)が兵を挙げるという噂がある。王姫は公子鮑に華元を推挙した。王姫は華元が貴族の間で信望を高め、庶民に人気のあることを知っていた。王姫は華元と共に宋を粛清・再建しようとした。公子鮑は華元を訪ねた。華元は公子鮑に兵を挙げてはならぬ、宋が公子を必要とするまで耐えよ、自分も耐えると言った。公子鮑は熟考し華元の言に従った、王姫は昭公から離れた国人の心を取り戻し、昭公を孤立させるために次々と手を打った。孟諸沢で昭公は忠臣の蕩意諸と共に斃れた。公子鮑が即位(文公)し、華元が右師に任命された。文公を狙う二つの勢力があった。一人は弟の公子須(こうししゅ)で、もうひとつは武氏である。宋に起きた弑逆事件を問責するため、晋が動いた。宰相は趙盾である。王姫は華元に財宝と奇物を与えて、華元は諸侯に文公の即位を認めさせた。華元の臣に士仲が加わった。斉の君主の懿公(いこう)が臣下に殺された。公子須の家に武氏の重臣が出入りした。華元は公子須を説得するつもりでいたが、説得できる相手ではなかった。叛逆の首謀者は、文公、王姫、華元を殺した後のことも熟考していた。そんな中、華弱が裏切って文公に密告し、逆上した文公は、公子須を始め武氏や穆氏を族滅せよと命じた。叛乱の鎮圧に貢献のあった楽呂が司寇に就任した。楚軍が北伐の軍を催し、陳を攻め、宋の国境を侵した。楚王は春秋五覇のひとり荘王である。楚軍と晋軍連合軍がぶつかったが、楚軍は強い。宋軍は大敗した。珍奇な事件が起きた。華元は、戦いの最中、前日御者だけに羊の肉を与えられなかった恨みから御者に裏切られて、兵車の中に拉致され敵の本陣に届けられ、捕らわれた。文公は賠償と引き換えに華元の釈放を願った。賠償が半ば届けられたところで、士仲は警備の薄さを突いて華元を救い出した。華元は御者を誹謗しなかった。華元と文公に治められた宋は安泰で、7年間国内に侵入されなかった。士仲は華仲と氏姓を変えて華元の家宰となった。8年目に楚が進撃した。楚は最盛期である。荘王は最初で最後の天下の盟主となっていた。楚の使者が無断で宋を通過しようとした。宋は使者を捕らえて、晋へ援軍要請している間に包囲された。籠城は150日を超え、兵糧が底を尽きかけた。晋と楚の力は歴然としており、援軍を出しても宋を救えそうにない。晋は宋へ使者を出し、まもなく援軍が着くと言わせるために遣わされた使者を楚の荘王は捕まえた。援軍は来ないと言わせようとしたが、使者は信念を曲げなかった。籠城は200日を超え、根負けした荘王は引き返すことを決めた。ところが荘王の足を申舟の子申犀が止めた。申舟が殺されれば仇を討ってやるとの荘王の誓言を信じて王命を果たしたのに撤退することの不実を詰った。このため荘王は宋の郊外に舎宅を建て始めた。華元と華仲の2人だけで舎宅に向かった。華元は人質となったが、文公は公子子霊と交換させた。宋は信義を尊重する国である。楚と晋を和睦させるために華元は両国間を奔走し、ついに慶事を実現した。