私の履歴書 岡野喜太郎(駿河銀行頭取) 日本経済新聞社 経済人2

昭和55年6月5日1版1刷 昭和58年10月30日1版11刷

 

甲州武人の後裔

②名主の子として育つ

③父母のこと

④村の章ねんのリーダー格

⑤借金党、花火で銀行を襲う

⑥十銭がけ共同社創立

⑦日本宰相の根方銀行

⑧伝来の田畑担保に銀行救う

⑨駿豆電鉄救済に尽力

関東大震災駿河銀行

⑪銀行経営に対する信念

⑫為替集中決済制度を実施

⑬戦時中の銀行合併問題

⑭一千万円貯蓄を提唱

⑮毎日が真剣勝負

 

・元治元年4月4日駿河国生まれで、昭和33年95歳。駿河というのはアイヌ語で天国という意味がある。元治は1年で慶応となり、慶応は3年で明治となった。16歳で沼津中学に入学した。根方銀行を創立し、県内に32の貯蓄組合を作った。駿東実業銀行も金融恐慌の影響を受けた。これを改称して駿河銀行とした。関東大震災で銀行は休業し、支払猶予令が布かれて預金先の古河銀行から引出が出来なくなった。支払わぬと言えば詰め寄られるが、どしどし支払っていると預けに来る者があって預金が増加した。全てを日報として報告させたお陰で震災に遭っても支障なく取引を進展させることができた。為替取引の無駄を省くために為替集中決済制度が生まれた。戦時中、静岡銀行と合併せよと大蔵省から話があったが断固拒否した。戦後一千万貯金を説いて回った。私の経営はせんじ詰めれば、入るを計って出ずるを制する一軒の家の経営と同じである。非常の場合にその差がはっきりわかるものである。これが60年間の銀行家生活のありふれた感想である。(昭和33年駿河銀行会長となり、40年6月5日死去)