馬上の星 小説・馬援伝 宮城谷昌光

2022年11月10日初版発行

 

帯封「『草原の風』『呉漢』に続く、後漢建国の物語! 夜に輝く馬援と天高く上る日のような劉秀 乱世のなか、互いを君臣と選びとったふたりが挑む、新王朝樹立の戦い」「資料をくりかえし読んでいるうちに、馬援が、上の三人の兄の秀才ぶりをみて、劣等意識に苦しんだことが、痛いほどわかった。その後、人ではなく牛馬に接してなぐさめられ、広い心をもち、平等を根本思想として生き抜いたさまは、当時の群像のなかでは特異であり、非凡であるというしかない。それがわかってくると、光武帝が恐れたのは各地の反勢力の首領ではなく、平等の所有を提唱しそうな馬援ではなかったか、などとおもうようになった。(「あとがき」より)」

 

あとがきには、前漢後漢の間にある新の時代(王莽の王朝。14年間)の馬援の言葉が紹介されている。「当今の世、独り君、臣を択ぶのみに非ず。臣も亦、君を択ぶ。」は、馬援がはじめて光武帝に謁見した時に述べたことばである。

『草原の風』で、王莽はとんでもなく悪い王として描かれていたが、本作では儒者としての王莽の側面が強調されている。もっとも制度が複雑でわかりにくかった。馬援は3人の兄たちと違い官界に関心がなく牛馬に触れていたかった。最大の理解者だった長兄が亡くなり、馬援は墓地で1年喪に臥した。その後、馬援は督郵に任命され、吏人となり実家を出た。次に罪人の檻送する仕事を命じられた。ある時、獄死した者の親戚が連座の為に死刑に処せられることになった囚人の檻送中にその嘆きを聞いた馬援は、囚人を自由にし、自らも北に逃亡した。従者として阿藤、包淇、范勝、毛恢の4人がついていった。馬援の父がかつて世話した任氏は馬援に半年間牛馬の飼育の仕方を教えた。赦令が発せられたことで馬援の罪は消えた。牧畜と農耕で着実に従者らを増やしていった。呂母の乱や赤眉の乱などの反政府の火種が次々と燃え広がり、これがやがて王莽や更始帝の王朝を焼き尽くすことになる。馬援がかつて救った囚人が訪ねてきた。周芬といい、子を周沓(とう)と言った。周芬は事務処理能力が高く記録の整理が上手だった。他郡、他県の者たちが移住し、次々と家が建った。人口が増えたため、馬援は漫遊の旅に出た。この旅の最中に馬援は貲産を集落の者などに平等に分与する計画を立て、実行した。この噂は広まった。荊州で劉縯が劉秀と共に挙兵した。王莽の百万の軍が1万の兵に敗れ、王莽が打ちのめされた。王莽は朝廷の威権を補繕するために各地の有力者を登用し、その一人が馬援だった。馬援は王莽が斬られる2か月前に新城大尹(益州の漢中郡の太守)に任命された。王莽は人民への思いやりにかけた形式主義に陥ったことは否めないと、馬援は心の中で呟いた。更始帝は劉縯を殺し、劉秀と対立するのは目に見えていた。益州では公孫述が天子を自称した。馬援は牧畜を行っていた。劉秀は農産中心の政治であり、畜産中心の政治とはならない、それでは不平等は永続すると馬援は考えた。馬援の兄馬員は劉秀に謁見して上郡太守となった。馬援は、隗囂(かいごう)と劉秀が手を結べば乱世が終ると見ていた。隗囂は光武帝(劉秀)と会った。隗囂は馬援に公孫述の蜀を探ってほしいと頼む。途中に延岑(しん)という難所があったが無事、公孫述と会った。しかし馬援は、公孫述を木偶人形、獰悪であると見限った。そのことを隗囂に伝えた。隗囂に頼まれて光武帝に信書を届けた。馬援は光武帝の度量が諮り難いと感じ、南へ随行した。呉漢は劉秀の命令を受けて新陽の陣を破った。馬援は呉漢の進出の速さに驚嘆した。孔子の思想は支配者の思想で、儒教が大衆を意識するようになったのは孟子の出現からである。劉秀は馬援を気に入り仕えてもらいたいと思ったが、馬援は辞した。隗囂には、劉秀は高祖に及ばないが、前の時代に比べられる者はいないと伝えた。隗囂は劉秀と和睦せず西方で独自の覇を唱えた。公孫述と組んだ隗囂を劉秀は攻めて破った。馬援は劉秀から離れる気でいたが、劉秀に召されて太中大夫を拝命し、次に隴西大守に任命された。その後、中央政府に入り、虎賁(こはん)中郎将に任じされた。皇帝の衛兵の長官である。人を救うために戦ってきたのは劉秀と馬援しかいなかった。晩年に誣告された馬援の汚名をそそいだのは朱勃(しゅこう)だった。新息候の印綬を没収された馬援の名誉は三代目の皇帝の時代に回復された。

 

馬援は、日本でいえば、坂本龍馬が長生きしたような人物だったように思う。