2023年10月18日第1刷
帯封「この者は時機がくれば、雲を招き、天に昇る龍となる 彼の澄み切った忠誠心はいかに育まれたのか。知られざる生い立ち、晴耕雨読の青年期…宮城谷版『三国志』完結から十年、ついに待望の作品が紡がれた」「ずいぶん『三国志』について書いてきた。だが、そこに登場するひとりを選んで、大きな構想に移植するのは、これが最初であり、最後となろう。そのひとりとは、諸葛亮以外に考えられなかった―連載にあたっての『作者のことば』より」
吉川英治の『三国志』しか読んでこなかったので、劉備玄徳と出会う前の諸葛亮の前半生のことは全く知らなかった。上巻の大半はその知らなかった諸葛亮の前半生を、父や兄、叔父、豫章での生活を中心に描いてくれている。書物を通して学んだことだけでなく、若い頃の経験や苦労が、その後、劉備玄徳に仕えた際の智慧として遺憾なく発揮されたのだということが改めてよく分かったような気がする。
諸葛亮は次男で、兄は諸葛瑾、弟は諸葛均。父は諸葛珪、叔父は諸葛玄。父の再婚相手に兄は親近したが、諸葛亮は兄ほどには親近できなかった。父が亡くなり喪に服した兄と継母は実家に残り、諸葛亮は弟と一緒に、曹操の兗(えん)州軍が攻めて来る前に徐州を逃れることになった。折しも袁術(袁公路)から叔父が豫章大守に任じられて豫章に向かった。諸葛亮は叔父から『春秋左氏伝』を学んだ。朱皓が武力で豫章群を奪い取るため兵を挙げた。初めての戦で諸葛亮は自ら弩を手に弓を放った。敵は兵糧攻めに切り替えた。食糧が尽きた諸葛玄は城を明け渡し、朱皓が豫章大守となった。が朱皓は殺され、劉正札が敵となり、諸葛亮は豫章から西南の荊州に向かった。平民となった諸葛玄は開墾を始めた。諸葛亮は1年間農耕を学んだ。徐州は劉備玄徳が譲られたが呂布が奪い取った。諸葛亮は崔州平と友とした。二人は苛酷な運命を辿っていた。徐元直、石広元も友人とし、龐(ほう)徳公を師とした。師から言われて水鏡(司馬徽)にも会った。1年間諸葛亮は学問に専念した。叔父が死に、成人となりあなざを孔明とし、弟、岱、斉の3人を伴って降山に籠った。47歳の劉備は27歳の孔明を三顧の礼をもって迎えた。曹操が南に侵攻した。劉備は孫権と結ぶため孔明を使者に遣わした。孫権の下で曹操に服するか否か会議が行われ、周瑜が曹操軍を撃破する旨宣言した。孔明の兄子瑜(諸葛瑾)もその場にいた。赤壁の戦いで黄蓋が孫権を裏切り降伏したふりをして曹操軍に近づくと船に火を放った。荊州四郡を得た劉備は孔明の反対を押し切って孫権と会ったが、孫権が荊州四郡を貸し与えるという態度を取ったために不快な会談となった。周瑜は劉備を押さえ込むために西の益州遠征を実行しようとしたが、周瑜は急死した。孫権から妹を押し付けられた劉備はやむなく正室に迎え、劉璋の招きに応じて益州に向かった。