三国志外伝 宮城谷昌光

2016年10月10日第1刷

 

裏表紙「魏の名臣・王粲、西方の梟雄・韓遂孫策孫権に従った太史滋、悲劇の女流詩人・蔡琰、大学者・鄭玄、『三国志』を著した陳寿…本編では書き切れなかった名臣・武将・学者たち十二人の知られざる人生を、愛惜の念を持って描き、三国時代が立体的に現出する。愛読者はもちろん、入門者にも最適の一冊。分かりやすい巻末年表付き。」

 

目次

1王粲(おうさん)

2韓遂(かんすい)

3許靖(きょせい)

4公孫度(こうそんど)

5呉祐(ごゆう)

6蔡琰(さいえん)

7鄭玄(じょうげん)

8太史慈(たいしじ)

9趙岐(ちょうき)

10陳寿(ちんじゅ)

11楊彪(ようひょう)

12劉繇(りゅうよう)

後漢・三国年表

 

・宦官に憎悪された党人の中で最も広く名が知られたのは李膺李膺と同じく八俊の一人に掲げられる王暢は王粲の祖父である。詩と文の天才の王粲は15歳の時、当時中華で最高の文化人と言われた蔡邕から私も及ばないと言わしめた。王粲は劉表に面会したが失望した。劉備は信用できぬ人物であると見た。曹操を人傑と説き、それを聞いた劉琮は曹操に降伏し、王粲自身、曹操に召し寄せられて丞相掾に任命された。王粲は建安文学の最高峰であった。

韓遂後漢末の梟雄である。河南尹の何進から声を掛けられたの韓遂が西方の計吏の中で優秀だったからだ。黄巾の乱が起こった後、ある日、家族を人質に取られ姜族の者から叛乱に加わるよう脅された。韓遂は友人の辺章と協力して義侠の兵を挙げることにした。官軍と反乱軍は美陽で戦った。官軍には、まだ天下に名を知られていない董卓陶謙孫堅などがいた。韓遂の指示を仰ぐ族が増え、辺章らは韓遂の暗殺を狂暴した。暗殺計画を耳にした韓遂は族長にそのまま伝え、対応を任せると、暗殺計画を立てた辺章らはほどなく死んだ。韓遂は西方の覇者になった。何進が暗殺され、韓遂は天下で最も弱い者が天子だと思い義侠心が頭をもたげ、馬騰と共に天子を助けるつもりで長安に入ったが、馬騰が先に逃げ出し、2人は対立した。曹操が皇帝を趨迎し、曹操に義侠を感じた韓遂だったが、馬騰の子馬超の懇願に応えて曹操と戦うことにした。韓遂羌族に支持され戦い死んでいった。

献帝の時代に人物鑑定で有名なのが許靖。従弟の許劭も同様に人物鑑定で名を馳せていたが、仲が悪かった。許劭は曹操を「乱世の姦雄」と評語したのは有名。もっとも後漢書では乱世の英雄となっている。許靖は晩年劉備に仕え太傅となった。

公孫度は遼東候、平洲牧と称して、侯国を建てた。王国といってよく、後漢のあとは三国時代というより四国時代というほうが正しいかもしれない。

董卓が誅殺されて悼痛した蔡邕を見た王允は蔡邕を投獄した。蔡邕の娘蔡琰は匈奴の左賢王の妾となり2人の子を生んだ。曹操はかつて蔡邕に好意を抱き、蔡琰を故郷に帰した。再婚した蔡琰の夫が罪を犯したために曹操に縋り、曹操は罪を宥した。蔡琰は父の蔵書四千冊のうち暗記していた4百冊を書き上げ早々に送った。遺漏や誤脱はなく蔡琰の名は天下に知られた。

・鄭玄は後漢後期の最高の学者である。学友に盧植がいた。二人は馬融に学んだが、ほどなくして馬融に失望した。鄭玄は故郷に帰った。党人禁錮により鄭玄も禁錮に繋がれたが、禁錮が解かれ、何進が辟召したが婉曲に断った。北海国の相に任じられた孔融孔子の裔孫で格別だったために鄭玄は辞旨を受け容れた。治安が悪くなり北海国から徐州に移った鄭玄は徐州の牧の陶謙から礼遇された。袁紹から官位を与えられたが就任せず病気を理由に郷里に帰った。官渡の戦いの年に袁紹の子が使いで来たので断れずに病身を起したが、74歳で死去した。北海といえば鄭玄を指すほどの大学者であった。

・黄巾の賊に包囲された孔融を援けよと母から命じられた太史慈は、孔融に会い劉備孔融の書翰を届けようと使いに出た。その後、劉繇に失望した太史慈孫策に仕え、豫章群北部の鎮定を任された。

・趙岐(趙嘉)は博識の馬融を訪問した後、一旦は河東郡に赴任したが、すぐに長稜県に移り曹嵩に匿われて数年を過ごし青洲刺史、幷洲刺史となった後、70半ばで中央政府に復帰した。董卓が王朝を乗っ取ると、趙岐は天子の洛陽への奉迎を求めて袁紹曹操に頼み誓言を得た。90余歳で亡くなる。季札、子産、安嬰、叔向の4人を墓穴の賓客の市に描いたという。

馬謖の産軍であった父を持つ陳寿は、蜀の学者の中で第一人者と父が言う譙周(しょうしゅう)に師事した。譙周は、後に劉禅に対し魏に降伏する道を示し、蜀の国民が戦禍に巻き込まれるのを防いだ。譙周の推挙により蜀で官途に就いた陳寿は、後に晋で治書侍御史の仕事をしながら壮大な歴史書の撰述を始め、4年過ぎに『三国志』を完成させた。

楊彪は、四知で知られる楊震の曾孫である。楊彪董卓袁術に仕えた後、董卓の下にいた李傕(りかく)と郭汜(かくし)が仲違いすると、献帝と皇后以下数十人で洛陽に向かった中にいて天子を守った。天子を迎えに来たのは袁術でなく曹操だった。曹操暗殺を袁術と企んだという声を聞いた曹操から厳罰が下されそうになった時に孔融の説述で釈放され、大常を拝命するが罷免され病と称して出仕しなかった。曹丕からも厚遇を示されたが辞退いた。84歳で亡くなる。楊彪の死と共に後漢王朝は滅んだと言ってよい。

・劉繇は揚州刺史に任命された。推薦者は陶謙や趙昱と考えられる。揚州には既に牧がいた。袁術が揚州九江郡に入り自分が任命した劉繇を追い出したため、劉繇は袁術と対立し互角の戦いをした。孫堅袁術から離れて独立すると孫堅は劉繇と戦い、豫章群に入ったが、その後病没した。