三国志名臣列伝 魏篇 宮城谷昌光

2021年9月25日第1刷発行

 

帯封「『劉備を殺すべきです』と部下に進言されて、曹操は…」「『わが懐にはいった窮鳥をどうして殺せようか』これまでの劉備の生きかたを観て、―人からうけた恩を返す型の人間ではない。と、洞察した。どれほど曹操が厚くもてなしても、劉備に滲みてゆくものはない。檻にはいった虎に愛情をかけても、檻からでた虎は飼い主をいきなり襲うであろう…。中国歴史小説の第一人者がいざなう『魏』を創った男たちの物語!」

 

目次

程昱(ていいく)、張遼鍾繇(しょうよう)、賈逵(かき)、曹真、蔣済(しょうせい)、鄧艾(とうがい)

 

曹操劉備を殺すべきだと献言したのが程昱。程昱と郭嘉は、曹操劉備を遣って袁術を撃たせようとしたことについて、檻から出された虎は自ら檻に戻ることはないとして一致して反対した。

・魏にとり南方防衛の最重要拠点である合肥の城を包囲した呉の十万の兵を撃とうとして、張遼は李典と共に八百の兵で自ら先頭に立ち敵陣に斬り込み、孫権がいる牙旗に近づき、孫権を逃走させた。

劉邦張良が属いたように、曹操を輔佐する荀彧は、天子の近くにいた鍾繇を擢用すべしと曹操に説き、献帝脱出計画を成功させ、献帝曹操の手に。曹操呂布を討ち、公孫瓚袁紹に敗れ自殺し、袁術が病死すると、曹操袁紹との覇権を争う官渡の戦い袁紹を敗走させた。曹操鍾繇を蕭何の功に等しいと称揚した。鍾繇は相国にまで昇り、曹叡の代で遂に太傅となった。

曹操曹丕に信頼され、曹叡も賈逵を重用したが、大司馬の曹休に嫌われ、呉との戦いに敗れた曹休は応援が遅いなどと賈逵に悪態をついたが、全滅寸前の曹休軍を救ったのは賈逵である。

・曹真の父は曹操の身代わりとなって殺された。曹操曹丕曹叡の信任厚く、大将軍に任じられた。曹真を失うと曹叡は軍事において司馬懿に頼らざるを得なくなり、王朝の主権が司馬氏に移行するきっかけとなった。

曹操が集めた能吏の一人が蔣済である。司馬懿が乾坤一擲の大勝負に出た時、蔣済は曹爽の側でなく司馬懿の側に趨った。

曹操が征討を諦めた蜀の国を下したのが鄧艾。鄧艾は劉禅に苛酷が処罰を行わず、その降伏を穏やかに受け入れた。功が大きすぎたことを鍾会に妬まれ、讒言されて反逆者とされたが、真の反逆者は鍾会であり、鍾会が死ぬと鄧艾は救い出された。68歳で亡くなった後、司馬昭の子司馬炎は、鄧艾に勲功があるのに子孫が奴隷になっていたため、嫡孫の鄧朗を朗中に召し出した。

 

こちらも大いに復習になる。