三国志 第6巻 宮城谷昌光

2010年10月10日第1刷 2020年12月20日第3刷

 

裏表紙「袁氏を滅ぼし勢いづく曹操。だが、諸葛亮劉備の出会いがその霸道を阻む。曹操孫権劉備三者が天下に並び立つ完成図を胸に献策を続ける諸葛亮。次第に力をつけた孫権劉備とともに曹操を攻める―「赤壁の戦い」である。曹操軍は水上戦で得意の鶴翼の陣を展開し勝利を手にするはずが、疫病と風に足元を掬われ、窮地に陥る。」

 

曹操の将軍の楽進、副将の李典、曹仁鍾繇(しょうよう)らの活躍が目覚ましい。曹操は家臣が反対する中で郭嘉だけは北伐を賛成し行した。一度の北伐で砕破できたのは田疇の首巧による。が郭嘉は病没し、張繍も遠征途上で死去した。劉備劉表の元に身を寄せていた。司馬徽徐庶から伏龍・臥龍と呼ばれた諸葛孔明を求めた劉備三顧の礼諸葛亮を迎え入れた。孫権劉表の戦いの中で、甘寧劉表から孫権に器の大きさを認めて鞍替えした。劉表劉備を飼い殺しにしていた。甘寧劉表の将軍黄祖を打ち破った。曹操荊州に攻め込むタイミングで劉表が死去した。後を継いだ劉琮は抵抗の気配を見せず曹操に降伏する。それを後から知らされた劉備はすぐに逃げ出した。魯粛周瑜孫権を訪ねていた。逃げる途中の劉備に呉の孫権から魯粛が使者として訪れた。曹操劉備に追いつく直前だった。魯粛諸葛亮孫権に説き伏せに出向いた。孫権曹操との戦いを決断より早く曹操の書翰届いた。魯粛孫権を説き、周瑜が軍議に戻り同じ意見を孫権に述べた。三万の周瑜軍で八十万の曹操軍を討つことが決議された。周瑜曹操赤壁でぶつかった。曹操軍は疾病で多くの船を焼い払い、初戦は周瑜が勝ったが、その後は睨み合いが続いた。周瑜劉備に烏林に向かうよう指示した。少数の劉備軍が曹操に挑むのではなく曹操の退路を断つ動きに出れば、曹操が先に動き出すという周瑜の作戦を諸葛亮は理解した。黄蓋曹操に降伏したと見せかけて曹操の船団に近づき、火を放ち、ちょうど向かい風が吹き多くの軍艦が燃えた。

劉備の軍が急ぎ移動していなかったため、曹操は退路を断たれずに退却できた。少数の手勢で江陵に到着すると、城を曹仁に任せて撤退した。周瑜甘寧の提案を受け入れて夷陵を責めた。曹仁は江陵を粘り強く守った。玄徳は荊州4郡の説得に回った。