昭和58年10月5日1版1刷 昭和60年3月20日1版3刷
①三百安い“ばばァ育ち”
②処女作-三作同時に
③初稿料
④ヴヰッカス・ホールの庭
⑤祖母を失う
⑥“朝顔”の作者思い出さる
⑦結婚式に芸妓の踊り
⑧震災以後
⑨わたしも、君も、ママも“無言”
⑩良友にして悪友たち
⑪放送局勤め
⑫唐紙のあけたて寒ンに入りにけり
⑬戦火のなかで
⑭鎌倉より再び東京へ
⑮かえりみて
・明治22年11月7日東京市浅草で生れる。慶応義塾の普通部を出て大学予科に入った後、明治43年(22歳)、文科の機構に大改革があり、森鴎外、上田敏を顧問に、永井荷風が入って事実上の主任教授となり、三田文学が創刊され、作家たらんとの志が動き、小説朝顔、戯曲遊戯が三田文学に載り、太陽の懸賞にプロローグを書いて送った。明治45年にスバルに戯曲暮れがた、新小説に小説・お米と十吉を書き原稿料を貰った。慶応大学文学科卒業後、31歳で慶応義塾大学の嘱託となる。35歳から54歳に一気に飛んで、菊池賞を受け、68歳まで年毎に履歴書の記述が続く。(昭和38年5月6日死去)