窪田空穂(歌人) 私の履歴書 文化人3

昭和58年11月2日1版1刷

 

①中農の次男として信州に生まれる

②わんぱくだった小学校時代

③印象深い駒沢滝登先生

④杉本中学生の英雄・小林有也校長

⑤母の訴えを背にし、早稲田を受験に東京へ

坪内逍遥先生のこと

⑦母の死、父の病い、養子縁組の解消など

⑧作歌を始め『明星』にはいる

⑨歌誌『国民文学』の創刊

⑩母校早稲田の教壇に立つ

⑪古典は永遠に滅びず

⑫よわい九十-親の恩・師友の恩、妻の内助あらばこそ

 

明治10年6月、松本市生まれ。当時中学校は県下に1校しかなかった(松本中学は現在は深志高校となっている)。両親に無駄で上京して補欠試験で早稲田文学部1学年生となり、和漢洋三文学の粋を講じその美を摂取し新文学を生む母胎を養った。母の死後、養子に入ったが、離縁となり実家に戻り隣村の小学校の代用教員となった。青年の投稿雑誌『文庫』の選者に与謝野鉄幹がなり、この頃の短歌が掲載されるようになり、しばらくすると鉄幹は『文庫』への投書歌を彼が主宰する『明星』へ載せ、新歌人と対等の扱いをして、『明星』の一員となった。復学した早稲田を卒業後、電報新聞(東京毎日新聞の前前身)記者として入社した頃、キリスト教に入会した。38歳の時、歌誌『国民文学』を創刊した。早稲田大学国文科の講師となった。現代語訳『源氏物語』は数え年60歳の暑中休暇の際に脱稿した。私の恩人は両親、坪内逍遥先生、キリスト教牧師植村正久先生である。後妻の林圭子がいたからある程度の古典研究書を残せた。友人に恵まれた。孤雁吉江喬松、葉舟水野盈太郎、前田晁、岩本堅一(素白)の四人は別に詳しく一文とした。(昭和42年4月12日死去)