私の履歴書 長谷川如是閑(評論家) 日本経済新聞社 文化人2

昭和58年10月5日1版1刷 昭和58年11月7日1版2刷

 

①明治の性格

②明治初期の風習

③私の生家

④表現と様式

⑤学校教育

⑥言葉としつけ

⑦渡米挫折

⑧療養生活

⑨評論家生活

⑩「日本」入社

⑪「大阪朝日」入社

⑫健康法

⑬生活態度

 

・前半は私の履歴書ではなく、評論家として明治の履歴書を綴っているようだった。明治10年頃までは英米主義だったが、10年以降に大陸主義を導入。元来、日本人は実益主義(功利主義)を取る英米主義だ。坪内逍遥先生は日本文学はイギリス文学と同じ性格のものだと論じたが、実は既に源氏物語について道徳的要素を持たない純文学的のものだということを本居宣長が江戸時代に説いている。逍遥は式部のまことらしい事実を語るのをリアリズムのノーベル(写実文学)で、まことらしからぬおどろおどろしい事実を語るものをロマンス(ロマン主義の文学)と、本居宣長を引用していっている。

・私は初等教育機関として作られた小学校には「明治」に入れられた。父は仏法の明治法律学校(今の明治大学)の予科に通った後、英法に転じるため東京法学院予科に転じた。大若槻礼次郎先生から弓を譲られたので、いずれ博物館に寄贈しようと思っている。肺結核の療養もあり24歳で中央大学を卒業し、新聞「日本」に投稿するなどした。「日本」に入社し、後に「日本人」と合併した「日本及日本人」が雑誌を廃刊したので、大阪朝日に移った。大阪朝日を退社後、雑誌「我等」を創刊。「批判」と改題し終刊まで10年続けた。フリーランスの評論家としてどこかの新聞社や雑誌社に籍を置かなかったのは日本でも世界でも珍しかった。(昭和44年11月11日死去)