三国志 第8巻 宮城谷昌光

2009年10月10日第1刷

 

裏表紙「戦え、と天はわれに命じている。天意を感じた関羽はわずかに笑み、そして孫権の兵に突入し斃れた。復讐を誓い荊州に出兵した劉備だったが、自らも死の病に伏す。三十余年の霸道を駆けぬけた魏王曹操もついに崩じ、王位は嗣王の曹丕に。戦国の英雄たちの死によって後漢王朝期は終焉を迎え、今ほんとうの三国時代が始まる―」

 

劉備が漢中王として皇帝に即位した。衰弱しきった後漢王朝と帝室に訣別し、漢の正統は劉備にあると天下に知らしめた。士仁と糜芳(びほう)が関羽を裏切り、公安と江陵は呉軍に侵入した。このため魏軍と向き合っていた関羽が退却した。馬忠により関羽関平は斬られた。諸葛亮と遭ってから劉備の思想が変わった。実現することが難しい志を捨てたが故に寒中王になった劉備の志は変わってしまったと理解した関羽はひとりで魏と戦い、呉と戦った。それは劉備への敬愛の表現だった。関羽の首を孫権曹操に送ったが、曹操は諸侯の礼をもってその首を葬った。曹操が崩じた。66歳だった。本当の三国時代が始まった。曹丕は4度目で献帝から禅譲を受けた。劉備孫権に対し報復の兵を送った。孫権呂蒙を使って公安と江陵を騙し取り、荊州三郡は劉備の支配と認めながら関羽が魏軍と戦っている隙に盗み取った悪辣さを赦せなかった。が劉備の戦い方は上手くなく、参謀の黄権を離したことで結果的に敗走し、白帝城まで撤退した。曹丕孫権に人質を出すことを求めたが、孫権が拒否したので、曹丕は呉を攻めることにした。劉備孫権に和睦をゆるすと伝え、和睦した。関羽の弔い合戦のはずだったが、何のための戦さだったのだろうか。劉備の病は篤く、劉禅の輔弼を諸葛亮に頼んだ。諸葛亮曹操を悪の源と決めつけ、孫権と結ぶしかないと心に決めた。孫権曹丕と和睦する意思がないと確認した諸葛亮は、南中の制圧に向かった。

七縦七擒(しちしょうしちきん)した諸葛亮孟獲は心服し、南部を平定した。