三国志 第10巻 宮城谷昌光

2009年10月10日第1刷

 

裏表紙「これからの蜀はどうなるのだろうか。国を支えてきた丞相・諸葛亮が薨じ、遺された皇帝・劉禅と群臣は不安に包まれる。魏でも皇帝・曹叡崩御。後に立った八歳の曹芳を司馬懿と曹爽の二人が輔弼する体制に。片や司馬懿は軍功を重ねて英名を高め、片や曹爽は浮華の者を集め司馬懿を権力から遠ざけ、蜀への遠征を敢行する。」

 

諸葛亮は3年かけて国力を充実させた。諸葛亮五丈原を拠点に戦いを開始したが、魏延が緩慢だったため初戦を突破できなかった。諸葛亮司馬懿の戦いは膠着状態となり、諸葛亮司馬懿に女の髪飾りを贈って司馬懿を怒らせて蜀軍を攻めさせようとしたが、司馬懿も先に動いた方が負けると思い動かない。睨み合いが続くが、諸葛亮司馬懿は内を引き締めるためにあの手この手を使うだけだった。夏に入り諸葛亮は食欲を無くし、秋になると、李福に、今後のことは、公琰(蔣琬)、次は文偉(費偉)に継がせるよう遺言した。重篤になると、自らの亡き後は魏延に拒がせて撤退せよと述べた。54歳で諸葛亮は薨じた。ところが、魏延は戦うと言ってきかず、楊儀魏延はもめた。結局魏延諸葛亮の遺命に背いたと見做され、騎兵を率いた馬岱魏延を苛烈に追い、魏延は斬られた。諸葛亮が埋葬されると、霊廟を建立したいとの声が上がり、詔令により建立された。『三国志』を書いた陳寿諸葛亮の才能と政治は管仲と蕭何に亜ぐと称賛した。中国の歴史上の人物で日本人が最も敬愛するのが諸葛亮になった。曹叡は燕王と称した公孫淵に洛陽に出頭するように命じたが、拒否されたため戦いが始まった。公孫淵孫権に助けを求めた。孫権は救援を送った。司馬懿仲達は遼東の制圧には一年が必要とみていた。魏軍は三戦三勝し公孫淵は滅んだ。曹叡曹操でさえ成し得なかった遼東を遂に版図に加えた。孫権の兵団は間に合わなかった。帰国途中の司馬懿曹叡の使いが来た。曹叡は病に倒れ、子がおらず養子が幼かった。曹宇を摂生にして司馬懿失脚を企途する勢力と曹爽を摂政にして司馬懿を政治の中心に据える勢力争いが始まった。曹宇、曹肇、夏候献、秦朗は全て罷免され、曹爽が勝利した。しかし次第に司馬懿を遠ざけるようになり、司馬懿を太傅という名誉職に異動させて実権を奪った。南では孫権が張昭と顧雍の反対を押し切って厳罰化を進めた。呂壱はそこにつけこんだ。孫権に罰を乱発させた呂壱を人々は恐れた。太子の孫登の献言さえ退けた孫権だったが、潘濬が命がけで諌めてようやく孫権は我に返った。曹叡が死んで幼い皇帝が即位したチャンスを捉え、孫権は北伐を断行した。呉の朱然は樊城を取り囲んだ。呉を撃退できる将軍は司馬懿しかおらず、司馬懿は自ら志願して救援に向かった。司馬懿が襲撃するとの噂を流しただけで敵は翻弄され、呉軍は退却を始めた。諸葛亮から後を託された蔣琬は呉に同調して北伐を開始して姜維に戦わせたが、呉は動いていなかった。呉では太子の孫登、諸葛瑾が立て続けに死去し、三男の孫和が太子に、子の諸葛恪が後を継いだ。司馬懿と諸葛恪がそれぞれ動いた。ぶつかる寸前、孫権の命令で諸葛恪は後退した。凱旋した司馬懿に嫌悪した曹爽は蔣琬が病気だと推察し、司馬懿の反対を押し切って自ら軍を率いて漢中に向かった。が蜀の王平費禕らの活躍に屈して大敗を喫し、曹爽の用兵のまずさは天下に知れ渡った。