三国志 第3巻 宮城谷昌光

2009年10月10日第1刷

 

裏表紙「霊帝崩御すると、宮中で宦官の大殺戮が起きた。この混乱に乗じて力を得た董卓は独裁者となり、皇帝を長安へ移し、洛陽の都を焼き払う。各地の叛乱は中央を離れた独自の勢力となりつつあったが、強大な董卓軍に最初に戦いを挑んだ曹操は惨敗し、次に戦った孫堅が大勝した。劉備は北方の公孫瓚の元で、黄巾軍に初めて快勝する。」

 

黄巾の兵を解散させた皇甫嵩朱儁からほぼ同時に捷報が届けられた霊帝大赦を行った。鎮圧されたかに見えた黄巾の叛乱は、張牛角のあとを継いだ張燕頭目となると、再び大きくなり、配下は百万に達した。朝廷は孫堅を長沙太守に任命し、孫堅は次々と朗報を届けた。曹操は銭で官位を買う父曹嵩を批判し父から離れていった。黄巾と同じような反政府色を濃くする米賊は張魯が自身を師君と号し支持された。34歳で霊帝崩御した。皇子弁が皇帝の位に即き、第13代小帝となる。群雄割拠の幕開きとなった。大将軍として王朝を統轄する何進袁紹袁術に厚遇の手を伸ばした。宦官の全廃を企図した袁紹は、董卓を招き寄せたが、何進は宦官を宥し天下の不信を招いた。宦官に何進は殺され、袁術は宮殿にも火をかけ、袁紹は二千余人の宦官を捕殺した。そこに三千の兵を率いた董卓が到着した。何進が死んで好都合だった董卓は大軍に見せる眩惑の術を行い、袁紹を圧迫した。即断を行わずに好機を逸すのは袁紹の特徴だった。董卓呂布に目をつけた。董卓は皇帝を廃立させ陳留王を立てようとしたが、袁紹は賛同せず洛陽を出た。董卓は百僚を集めて威をもって押し通そうとした時に反対したのが盧植だった。董卓盧植を罷免し、陳留王協を立てて帝(献帝)とした。董卓は何氏を族滅した。董卓が乗り込んだ時から三国時代は始まった。遠因は鄧太后が宦官の専横を招き、近因は二度も名士と賢臣が弾圧された党錮にある。王朝の自壊の象徴として董卓が存した。董卓は大尉となり相国(丞相)となった。王朝を私物化した董卓を見て、曹操は昇進すればするほど死に近づくと考え、京師を脱出した。袁術も京師を脱出した。曹操は衛茲の扶助を得て董卓を逐斥するために挙兵した。曹操は、官兵と義兵の違いを説く鮑信の進言を素直に受け入れた。袁紹袁術も軍を挙げた。曹操は初戦の董卓との戦いで董卓の配下徐栄と出くわして敗れた。曹操は衛茲を失った。袁紹は劉虞を践祚させようとした。曹操は別の王朝を樹てようとする袁紹に反対した。袁術も反対した。孫堅董卓討伐の訓練を行い、董卓を打ち破った。戦いの最中、孫堅は井戸の中から伝国の玉璽を見つけ出して秘匿した。袁術孫権の妻を幽閉した。袁術に玉璽を献上すると、妻は戻された。董卓は西方に去った。公孫瓚の下に、劉備趙雲がきたが、趙雲は去った。公孫瓚袁紹が激突し、袁紹が勝利した。袁術袁紹と手を組んだ劉表を攻めた。