序の舞《四》 宮尾登美子

1987年4月10日

 

桂三から連絡が途絶えて不安になった津也は桂三を訪ねた。留守だったが部屋に上がると父親からの手紙が目に入った。そこには事実と異なる津也の奔放極まる風聞が書き連ねてあり結婚を許さないとの結論が書かれてあった。桂三が帰ると、桂三もまた手紙に影響されていた。間違った噂を正すべく長文の手紙を書いた津也だったが、返事がない。再度の手紙にも返事がなかったので桂三を再訪する。桂三は津也を信じたが、親の進める縁談に応じるという。津也から別れたくないと言われると桂三も揺れた。しかし桂三から届いた手紙は挙式の日程が決まり、来訪も便りも慎み下されとの縁切状だった。脅迫的な内容だと知りつつ手紙を書き桂三に会った津也は結婚後も逢ってほしい、それもダメなら服毒すると言い出して岩絵具を取り出すが、勢以のことを考えれば死ぬことはできなかった。桂三は結婚した。松渓が今わの際に呼び出され、孝太郎に松董(しょうとう)という雅号を贈られた。松渓の葬式には孝太郎は連れずに津也のみ参加したが、愛人らの醜い争いの場となっていた。自分自身のことを描くつもりで「生霊」を描いた。色調からがらりと変わった壮絶な仕上げだった。「焔」と題を変えて第12回文展で話題を呼んだ。孝太郎は20歳となり主席で卒業し引き続き京都市立絵画専門学校へと進み、孝太郎も第3回帝展で入賞した。津也は女性初の帝国美術院の日本画審査員となる。勢以が中風で倒れる。孝太郎に縁談話が進み、孫に恵まれた。孝太郎は第9回帝展で特選を射止め、親子そろって絵描きとなっていく。太鳳が肺炎となり湯河原で最後一緒に暮らそうと誘われるが、勢以を捨ててはいけないと思い留まる。妹の志満が急逝し、勢以も85歳で大往生を遂げた。母への追慕を描いた「母子」はじめ、品位と美が匂い立つような作品を次々と生み出していった。帝展が廃止され新文展発足に伴う招待展に「序の舞」を出品。“私の理想の女性像”という談話を発表し、美人画の品格は誰の追随も許さぬものとなった。日本画横山大観と西内太鳳が文化勲章を受けた。新聞で桂三が心筋梗塞で62歳で亡くなったのを知る。戦争で生駒に疎開し、その後も京には戻らず、津也は74歳で女性初の文化勲章を受章した(16歳で受賞以来40数回、その素質が評価された)。受賞後、家庭の生活費が1か月500円という時代で、松翠の画料は尺五の軸ものに70万円もの大枚の値がついた。最後は肺蔵癌で亡くなった。

 

巻末の磯田光一の解説「“花”のある物語」によると、島村津也は上村松園、西内太鳳は竹内栖鳳、松渓塾は鈴木松年の営む松年塾として登場する、津也は女性解放の動向と無縁の場所にあることでかって彼女自身たり得ている、芸術表現をその作者の“私”の告白とみる近代的な芸術観は津也にはほとんど無関係であった、「生霊」が後の「焔」になるが、これまでの津也の作風と異質と言いながら「焔」さえ抑制された情念のありかを感じさせる、宮尾の作品の素材は多様な領域におよび、それらを彫啄的な文章でえがくことにより華やかな絵巻をつくりあげたが、そのひとつの到達点が『序の舞』である、とのこと。