三国志 第9巻 宮城谷昌光

2013年10月10日第1刷

 

裏表紙「後世に名高い『出師の表』を書き、孔明は魏を征伐すべく軍を発する。しかし先鋒を任せた馬謖は兵法には精通しているが実戦経験に乏しく、惨敗を喫す。未だ成熟をみない国の法を重んじ、涙を流しながら馬謖を誅す孔明。一方、尊号を王から皇帝に改めた孫権は、早期の天下平定を目指し遼東の公孫淵と手を結ぼうと使者を送るが…。」

 

魏の曹丕は、忠臣の鮑勛を誅した直後、崩御した。若き曹叡が即位し、曹丕を補佐した司馬懿らの意見を聞いて政を行った。呉の孫権が魏を侵略した。諸葛亮孟達を蜀に取り込もうとしたが、孟達の決断は鈍く、急いで駆けつけた司馬懿孟達は討ち取られた。魏延は、長安を守る夏侯楙が凡庸であることを見抜き、長安を攻める作戦を提案したが却下され、結局、諸葛亮馬謖を先鋒に命じて正攻法で戦うことにした。魏延を先鋒とせずに馬謖にしたのは諸葛亮の判断ミスだった。蜀には益州一州しかなく、魏には十二州あった。郭沖は、一万の兵しか持たぬ諸葛亮が、二十万の魏軍を持つ司馬懿に伏兵があると思い込ませて遁走させたと書いたが、これは嘘である。漢中郡を守った趙雲は見事に後拒を務めた後、死去した。馬謖は街亭の山上に登った。佐将の王平が山を降りるよう馬謖に諫言したが、馬謖は聞き入れなかった。水路を断たれた馬謖王平の兵が先に下山していたので何とか逃げ延びた。諸葛亮馬謖を処刑した。この時諸葛亮が得たのは異才の姜維だけだった。敵のおびき出し作戦に引っ掛かった曹休は呉の内地深く入り囲まれ大打撃を受ける。諸葛亮は再び北伐した。

名将郝昭の城の守りは固く、諸葛亮は退却したが、追いかけてきた王双を討ち取った。その手柄で丞相に復活した。孫権は遼東を支配する公孫淵との戦いに敗れた。孫権が皇帝に即位した。蜀は劉姓以外の皇帝を認めないはずだが、諸葛亮は祝賀の使者を送った。西方を支配していた曹真が病に伏せたために司馬懿が西の戦いの指揮をとった。諸葛亮が攻め、張郃の提案を却下した司馬懿が劣勢となり、諸葛亮魏延の作戦を却下し、両軍は特別な策がないままに衝突した。戦いは諸葛亮が有利に進めた。が長雨が続いたために蜀の兵糧が尽き、諸葛亮は撤退を決める。司馬懿張郃が止めるのも聞かず追撃命令を出した。張郃諸葛亮の伏兵が射た矢で死んだ。諸葛亮が引き上げてみると兵糧を運ぶ道路が塞がれたという報告は事実ではなかった。諸葛亮は責任者の李平を平民に落とした。孫は台湾と九州を探すよう命じ、台湾は見つかったが九州南部の島に辿り着けなかった。魏を揺ぶるため遼東に使いを出し外交を結んで魏を北から圧迫しようとしたが、曹叡は遼東攻めた。曹叡の宮殿造りに諫言を呈した陳羣も亡くなった。魏の圧迫を感じ始めた遼東の公孫淵孫権に貢物と使者を出した。孫権は張昭ら臣下の反対を押し切って一万もの大船団を遼東に派遣した。が公孫淵は態度を豹変させて呉の隊や船の全てを襲い財宝を奪った。孫権は激怒し報復を号令したが臣下達は反対した。反対派の代表格張昭に孫権は謝り和解したが、3年後張昭も病没した。孫権は次男孫慮を病気で失い、長男孫登を呼び寄せた。