昭和55年8月4日1版1刷 昭和58年10月24日1版8刷
①“せんじみみず”が命の親
②朝露を踏む牛乳配達
③忘れえぬ由布先生
④北海道長官直伝の山岡流
⑤酪農から乳製品事業への念願
⑥オハイオ州立大学めざして
⑦柔道で名をあぐ
⑧乳製品工場でアルバイト
⑨思い出の米人たち
⑩“メキシコの戦慄”
⑪父とともに牧場経営
⑫生涯の思い出「電灯事件」
⑬関税撤廃のショック
⑭組合発足-ひとりで奮闘
⑮“雪印”のマークを考案
⑯舶来品追い出し-世界の市場へ
⑰北海道興農公社設立
⑱アイスクリーム育ての親
・明治31年2月14日札幌生まれ。牛乳配達を毎朝3時に起きてやった。北大では酪農を専攻した。渡米してアメリカ留学生活を送った。乳製品工場で働き、卒業後はその工場の主任となり、大学の職員になった。帰国後、牧場を自助園と呼び、バターやアイスクリームを作った。手動でバターを製造し、買い手がついたのでマークを考案し、雪印と決めて、登録しようとしたら金章印に似ていてダメだと言われ、河合氏に交渉したら事業を辞めていたので譲ってもらえた。これが雪印のはじまりである。北海道の地図を付け加えたのはアメリカのオハイオでバターの箱に州の地図を入れていたところから思い付いたものだった。交通の便のよい札幌に工場を作ることにした。戦後、雪印乳業株式会社と北海道バター株式会社の二つに分割し、後者はクロバー乳業に社名を変えた(33年11月に両社は再び合併した)。ここ6,7年のうちに生産が休場し10年前の5倍以上になった。飲用の牛乳は1割くらいで9割は乳製品の製造に回される。アイスクリームの製造と普及についての苦労は私にとって忘れない思い出である。(昭和38年雪印乳業会長に就任。46年取締役相談役。48年より相談役)