昭和55年4月25日初版第1刷発行
イエスの裔「三田文学」昭和26年12月号 第26回(1951年下期)直木賞
検事は、妊娠した孫娘(和枝)を殺害した老人(指貫藤助74歳)から、殺害動機について、子を生ませたくなかったとの供述を引き出すことに成功したが、老人はそれ以上語らなかった。情夫だった杉本某というやくざ者が、それは多分自分の子だと供述した。検事は、3人の人物、老人の幼友達の高級料亭の主人、殺された娘の実父の知己である作家、杉尾の3人を証人として召喚した。料亭の主人は、“凶器の刺身庖丁は当店の物に間違いない。前日藤助が訪ねて来て、昔取った杵柄ならぬ庖丁の腕前は信頼できるものだった。庖丁はその時に持ち帰ったに違いない。藤助は妹小よしが生んだ澄江を引き取って苦労して育てた、女で本当に苦労したのが藤助だ。和江がどういう育て方をされたのかは事情の詳しい方に聞いて下さい。藤助は仏様のようないい男だったことは確かだ”と語った。作家は、“この事件を新聞で読んで善良の過剰を感じた。妹、その子、その娘のために女房を貰わず趣味も持たず黙々と働いた。がその善良さは罪悪だと思う。澄江は藤助を父だと思っていたが、ある時、父は別にいたことを知り、嘘を付いたと藤助を攻め立てた。澄江の母が華族の長男と別れる時にもらった手切金は澄江名義で預金されていたが、食堂を開く時につぎ込んだ。澄江には店の手伝いはさせなかった。澄江はカフェに勤めたいと言い出した。鈴江が、藤助に無断で小よしを捨てた男のことを知っている神本という新聞記者に会っていたのを知り、藤助は澄江と口論になった。以来、澄江は藤助を無視し始めた。文壇の長老と付き合い始め、和枝を生み、老人は澄江との一切の経緯を小説に書いて発表した。澄江は大震災で死んでしまい、藤助が和枝を引き取って育てた。法律が善良そのものを裁くというのは僭上の沙汰だと思う。和江の子がまた女であったら4番目の犠牲者になると考え、永遠の安息を与えてやっただけだ”と語った。やくざ者は“復員後、藤助爺さんに偶然再会し、藤助さんの世話になり、和枝に襲い掛かった。藤助さんの部屋を出た後、帰らずにやくざに身を落とし、借金を作った後に和枝を騙して、借金のかたに別のやくざ者の渡吉に渡した。服役後、偶然に和枝と再会した。和枝が夜の女になった理由をきいて、渡吉を刺すことも考えたが、ある日、妊娠したという書き置きだけ置いていなくなった。藤助爺さんのアパートに行くと、和枝がいて、和枝は藤助さんには本当のことを言わず、アメリカ人の妻になったと言ってあると聞いた。部屋を出て藤助さんが帰ってきた後、こんな事件が起きてしまった。悪いのは俺です。俺が代わりに罰を受けます”と語った。
その他、死者の唇、デスマスク、善魔の窖も収録されている。